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2015年12月25日02:09

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関ヶ原史料「家康は嘘つき?」開戦前六三号

○以下の手紙は三つとも家康が書いたもの。まずは八月十二日付、加藤清正宛て。

●手紙六三号「このたび上方と戦争になったとはいえ、あなたは敵対しないとのことですから、大変に喜ばしいことです。ですから、肥後と筑後の両国を差しあげますので、手に入れ次第、支配してください。このような状況ですから、可能な限り油断のないよう、それが第一というものです。なお、津田小平次と佐々淡路守が伝えるでしょうから、省略します」

○次も、同じ八月十二日付で、宛名は細川忠興です。

●手紙六四号「このたび上方と戦争することになりましたが、絶対に味方になるとのことですから、喜ばしいことと思います。ですから、丹後のことは言うまでもなく、但馬を一国、文句なしに差しあげます。なお、金森法印と津田小平次が伝えるでしょうから、詳しくは書きません」

○そしてもう一つ、これは八月十四日付で、九鬼守隆に宛てたもの。

●手紙六八号「このたび上方と戦争することになりましたが、あなたは別で、味方であるのは喜ばしいことです。ですから、南伊勢の五郡を差しあげます。ただし、その範囲内に、今回関東へ来ている者の領地があるので、その分はどこかの国から与えるつもりです」

○要するに三つとも、味方に付いた者へ「領地をあげる」と言っている手紙です。熊本の加藤清正は、九州から出てくることはありませんでしたが、黒田如水と組んで「九州の東軍」となった者。丹後の細川忠興は、領国にいる父が西軍に攻められていても、我慢して東軍であった者。伊勢志摩の九鬼守隆に至っては、父が西軍に属したにもかかわらず、東軍でいた者。よって家康は、彼らが味方であることを喜び、領地を与えることを手紙で約束したわけですが、結果的には約束どおりの領地を与えていないわけなんです。肥後の半分を領有していた清正には、肥後一国を与えましたが、筑後までは与えていません。細川忠興は、丹後の代わりに豊前をもらって、領地石高は増加です。九鬼守隆も志摩の領地が増えただけ。約束するだけなら「ただ」みたいなもんで、家康は「気前のいいカラ約束で、味方を増やす工作をしたが、約束のほとんどは履行されなかった」と言われています。さすが狸親父ってわけですね。でも、その解釈は、これらの手紙が本物だったなら、の場合です。これが全部偽書ならば、嘘を書いたのは「手紙を偽造した者」であって、家康ではないわけです。家康は、本当に嘘つきですかね?

○確実に言えることは、これらの手紙の内容と、歴史的結果が一致しないこと。その場合には四つのケースが考えられますよね。「一、偽書だから一致しない。二、本物だが、状況が変化したせいで一致しない。三、本物だが、誤解や誤情報が混入したため一致しない。四、本物だが、わざと嘘を書いているから一致しない」というわけです。しかし定説では、「一致しないものは全部が四である」と解釈しちゃっているのです。家康の「すっかり定着している狸親父のイメージ」は、こうしてできあがったものなのです。残念ながら、どの手紙にも「真偽の判断が可能となるような、ほかの記述内容がない」ため、判断不能と言わざるをえません。残る判断方法としては、「家康という人物は、こんな嘘を平気でつくような人間だったのか?」という点だけでしょう。「本物だとわかる手紙史料」の記述を見てきたところでは、どうでしょうか。毛利の敵対を信じられず、確信できない以上は他者への手紙にも書かず、黒田長政から届いた手紙を見て「満足だ。信じていたよ。やはりおかしいと思っていたんだ」と書くような人物なのですけどねえ。でも、狸親父の固定観念があると、「毛利を信じていた」が嘘に思えるのでしょうね…。
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