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日記一覧

○家康が九月一日に書いた手紙は、まだあります。今度の宛先は真田信之です。●手紙九八号の一番「強く伝えます。それは、大垣に治部少輔、島津、備前中納言、小西摂津守がこもっているからです。ただちに取り巻き、水攻めにするでしょう。早速、出馬致しまし

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○ここが始まりでした。同じ九月一日に家康が書いていて、宛先がかぶっているのに内容の違う手紙。偽書の混入を想定しなければ、絶対に起こらない現象。改めて確認します。まずは、宛名が福島正則と黒田長政の連名のもの。これを「福黒状」としましょうか。最

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○いよいよ家康が西へ出陣することになるわけですが、その直前に書かれた手紙です。宛名は堀親良で、新潟の堀秀治の弟です。当時は、兄の領地の一部を譲られていて、新潟県長岡市のあたりを領有する蔵王堂城主。八月二十九日付。●手紙九五号「わざわざ伝えま

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○栃木を離れて中仙道へ出たらしい徳川秀忠が、この時期に書いた手紙があります。日付は八月二十八日で、前線にいる黒田長政に宛てたもの。●手紙九四号「あれ以来、連絡しませんでしたので、手紙を書きました。というのは、これまで宇都宮にいて、境界地域の

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○関ヶ原決戦で東軍が勝てた要因は、吉川広家の離反と、小早川秀秋の寝返りがあったからだ、とされています。「毛利の両川」吉川と小早川。毛利元就の息子たちが、それぞれの家を継承し、毛利本家を支える立場になったものですが、秀秋は小早川隆景の実子では

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○「駆け引き」という言葉があります。「相手の出方を見ながら、強気に出てみたり、弱気に引いたりして、勝負的に交渉すること」って感じでしょうか。この言葉の語源は、「戦場で、前に駆けて進んだり、後ろに引いたりすることから来ている」とされています。

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○織田信長の死後、清洲会議で羽柴秀吉が、織田家の当主に擁立した三法師。彼こそが岐阜城主の織田秀信です。次の手紙は八月二十三日に秀信が書いたもの。●手紙八〇号「このたびの籠城について、新座でありながら油断なく対応し、そのうえ前後の状況を見届け

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○八月二十八日付、家康の手紙。宛名は、前線にいる藤堂高虎です。●手紙九二号「早くも報告、大変に喜ばしいです。このたび治部少輔が出てきたところに、一戦されて、ことごとく討ち果たされたことは、いさぎよいことであり、お手柄でもあります。来る一日に

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○前線の豊臣軍団が美濃戦を開始して、「明日には岐阜城を取り囲む」と報告してきた「手紙七七号」が八月二十二日付。それに対して家康が返事を書いたとされる「手紙八三号」は二十五日付で、さすがに早すぎる感じ。二十六日付で返事を書いている「手紙八六号

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