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日記一覧

○二月二十七日に忠利が送った「九二一番」城乗り報告。それに対して、江戸へ行く途中の三月六日に忠興が返した「一五一五番」を、忠利は十七日に熊本で受け取って、返書の「九二六番」を書いていました。そして忠利は、同じ十七日にもう一通の手紙を書いてい

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○二月二十七日に忠利が送った「九二一番」は城乗り報告でした。本文に「三ノ丸の塀をこちらで取り、ただちに内へ押し込みました。二ノ丸際までの押し詰めです」とありました。さらに追伸で「二ノ丸から鉄砲を撃ちおろしてくるので、楯と竹束で防備しています

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○忠利たち細川軍は、三月二日に有馬を離れて、熊本へ帰国しました。●忠利九二四「3月5日」「一つ、御無事に江戸へ御到着なさいましたでしょうか、教えていただきたく思います。長々の道に御苦労のほど、お察し致します」「一つ、有馬に上使衆は、いまだに

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○前回に「忠利の詳細報告」を第五文まで読みました。これによって、城乗りの状況が、いくつか判明しました。残りの文章は「結果の報告」です。●忠利九二二「3月1日」第六文〜第十一文「一つ、本丸で、大将四郎の首を、当家の陣佐左衛門が取りました。上様

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○二十七日に開始された城乗り。前回に、その第一報「九二一番」を書きましたが、ほとんど状況のわからないものでした。よって「九二一番」を読んだだけでは、仕寄に効果があったのかどうかさえも不明です。しかし次は、詳細報告です。●忠利九二二「3月1日

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○原城へ向けて「城乗り」が始まったのは二十七日でした。忠利の第一報です。●忠利九二一「2月27日」「二月二十七日、未の刻。三ノ丸の塀をこちらで取り、ただちに内へ押し込みました。二ノ丸際までの押し詰めです。重ねてなお、お伝えするでしょう。鉄砲を

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○二十一日に「敵の夜襲」の第一報を送り、二十二日に「忠興の返書」に返信を書き、二十三日には夜襲の詳細報告を書き送っている忠利。翌二十四日にまたも手紙を書いています。忠興から「別の手紙」が来たので、その返信です。●忠利九二〇「2月24日」前文「

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