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2015年10月29日01:00

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関ヶ原史料「嘘つきは誰?」大坂決起三一号

○七月十五日に、大坂で島津惟新義弘が書いた手紙です。関東では、まだ何も情報が届いていないころに、大坂で最初の動きがあった模様。宛名は上杉景勝です。

●手紙三一号「初めてお便り致します。このたび内府が貴国へ出ばっていったので、輝元、秀家をはじめ、大坂御奉行衆、小西、大刑少、治部少が話し合われまして、秀頼様の御ためであるからには、貴家の家老も、あなた様も、同意しているとのことを伺いましたから、私も同意します。詳しくは石治が書くでしょう」

○なんとも言えないくらいに意味不明の手紙なのですが、定説解釈においては、大坂で「徳川打倒」の話し合いが持たれて、決起が決まったことを、「島津が上杉に報せている手紙」とされています。しかし、どこにも「徳川を打倒する」とは書いていないのです。たとえば原文で「今度内府貴国へ出張に付」となっている冒頭文に、もしも末尾に「而」の文字があれば、「家康が会津へ行ったことについて、話し合った」となるでしょう。つまり「家康が会津へ行きやがったことが問題で、それを話し合った」わけです。でも「付」で止まっているため、「今は家康が会津へ行ってしまって、いないので、こちらだけで話し合いをした」とも読めるのです。この場合は、「いない家康が悪いんだ。のけものにして、俺たちだけで話し合った」という意味ですね。原本史料を採録したものではないようですから、写本の段階で脱字があったかもしれず、文意だけでは判断できません。

○この手紙の問題点は別にあります。毛利輝元、宇喜多秀家、大坂奉行衆、小西行長、大谷吉継、石田三成が「話し合いをした」と書いてあることです。さらには、この場にいない上杉景勝も、家老の直江兼続も、話を事前に聞いていて、すでに同意の意思を伝えてきているのだ、とも書いてあります。ところで、もう一人「この場にいないはずの人物」の名前に気がつきませんかね。そうです、毛利輝元です。では、同じ七月十五日に輝元が書いた手紙。宛名は加藤清正です。

●手紙三二号「強く伝えます。三奉行から、このような手紙が届いたので、よくわからないのですが、今日十五日に船出します。とにかく秀頼様へ忠節せよとのことを言ってきましたので、彼らの御指図どおりにします。早々に御上洛をお待ち申しあげています」

○広島で書かれたようで、「今日中に船出する」とあります。よって、「三奉行から、このような手紙が届いた」というのは、「二六号」の呼出状のことになるでしょう。それを筆写して、清正への手紙に同封したようですね。そして「あなたもすぐに御上洛を」と促しているわけです。ポイントは、「三奉行の手紙の意味が、よくわからない」と言っていること。原文では「不及是非」で、直訳すれば「いいとか悪いとか、考えてもしょうがない」という意味なのですが、この場合は「なんだかわからんけども、考えてもしょうがないから、船出する」となるわけです。ちなみに輝元が「わからんけども行く」と判断した理由は、手紙を届けにきた使者が「とにかく秀頼様への忠節です」と言ったからですね。「そういうことなら、行くしかないし、清正にも報せてやらなきゃな」と思った輝元は、事情も何もわからないまま、これから広島を出発するわけです。

○話を戻しましょう。十五日に島津義弘が、大坂で話を聞いて、「輝元も話し合っている」と手紙に書きました。その同日に輝元は、まだ広島にいて、「ようわからんけど、とにかく出発するから」と手紙に書いているのです。二つの手紙が、どちらも本物であるとすれば、いったい輝元たちは、いつ、どこで、話し合いをしたのでしょうかね?

○どっちかを「偽書だ」と決めつけることはできませんので、まず、島津の手紙が本物であると仮定してみましょう。その場合、島津は「この場にいない」上杉に手紙を書いたわけですが、同じように「この場にいない」毛利や、おそらく宇喜多にも、手紙を書いたのでしょうかね。もちろん、すべての手紙史料が残存しているわけではないので、「史料がない」ことだけで「手紙を書いていない」と決めつけることはできませんが、しかし、一つ明白な事実があるのです。それは、会津にいる上杉であれば、この状況下で大坂に来ることはないけども、広島の毛利なら、まもなくこちらへ来るってことです。三奉行が呼び出しました。安国寺が迎えにいきました。毛利が大坂に到着すれば、島津は「直接に話す」ことができるのです。わざわざ手紙を書くまでもないってことですね。ところで、毛利輝元は、本当に「話し合った内容」を知っているのでしょうかね。大坂屋敷の宍戸元次が「輝元は知りません」と書いていましたし、吉川広家も「知っているはずがない」と書いていたじゃないですか。そして輝元自身も「なんか知らんが、秀頼様への忠節なら、行くしかないな。安国寺に説明を聞けばいい」ですよね。だって呼出状には「安国寺が迎えにいって、説明します」とあるわけなんですからね。ところが安国寺は、実は石田の計画を知っているわけですよ。だとすれば、明石で輝元を出迎えた安国寺が、輝元に説明するのは「石田に謀反の噂があるから来てほしい」ではなく、「みんなで話し合ったことになっている内容」だってことなんです。こう考えると、一連の手紙の内容がつながるのです。ということは、大坂城で十五日、島津のいる席で「すでに輝元も知っている話だ」と、誰かが嘘をついたことになるわけですね。そして、その嘘に辻褄を合わせるために、安国寺が先回りして、輝元に話を伝えにいったと考えられるのです。
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