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日記一覧

○七月十五日に、大坂で島津惟新義弘が書いた手紙です。関東では、まだ何も情報が届いていないころに、大坂で最初の動きがあった模様。宛名は上杉景勝です。●手紙三一号「初めてお便り致します。このたび内府が貴国へ出ばっていったので、輝元、秀家をはじめ

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○会津方面出陣のため、領国の出雲を出発していた吉川広家は、七月十四日の段階で、兵庫県の明石に到着していました。吉川と言えば「毛利の両川」と言われる毛利家の重臣です。当主の輝元とも従兄弟どうしにあたります。ちなみに、大坂屋敷の留守を預かる家老

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○七月二十七日の段階で、関東では「石田三成と大谷吉継の謀反は確定だ。討伐のために西進する」という状況になっていました。その間、大坂では、どんな状況だったのでしょう。時間を七月十二日に巻き戻してみましょう。つまり、大坂奉行の増田長盛が「石田に

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○最初は「噂にすぎない」と思っていたらしい家康も、次第に放置できなくなったうえ、京極の報告を聞いては「自分も上洛せねば」と決断したようです。そのころの手紙が二つあります。まずは家康から新潟の堀秀治宛て。七月二十六日付。●手紙四〇号「そちらの

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○大坂からの一報は、家康の出陣前に届いていたと思われるのに、家康は当初の予定どおりに動き続けていたようです。その間も各大名は、続々と栃木に向かって進軍を続けていました。すると家康は、集結してきた大名たちと、話し合う場を設定したらしいのです。

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○関西からの報告を受けた徳川家は、この事態をどう見ていたのでしょう。そのころの手紙が二つあります。まずは秀忠の書いた滝川雄利宛て。七月二十二日付。●手紙三六号「ご思慮あってのご報告に歓喜します。会津方面出陣のことは、昨日二十一日に内府が出馬

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○大坂の状況はおいといて、まずは関東のほうから見ていきます。現代人は「関ヶ原の合戦の基本的な展開」を知っているわけですが、だとしても、あえて「まだ何も知らない」という前提で考えてみましょうよ。当時は電話もありませんし、テレビのニュース速報も

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○七月十二日に増田長盛が送った一報は、「石田と大谷に謀反の噂」というものでした。本文が短すぎて、それ以上は何もわかりません。そのあたりの事情を記しているのが次の手紙です。毛利家の大坂留守居衆、家老の宍戸元次ら三名が連名で、徳川家の永井直勝、

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○時系列が跳んでしまいますが、先に八月三日付の「手紙五四号」を見ておきましょう。仙台の伊達政宗が書いたもの。宛名は井伊直政と村越直吉の連名です。●手紙五四号「上方のこと、たとえどんな程度であれ、およそこれぐらいのことなら、若輩ながら見通して

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○江戸へ帰った家康は、会津方面へ行くために動き出しました。そのあたりの状況を記した手紙です。細川忠興が、江戸にいる息子へ宛てた返事。「大坂の陣」の史料整理ではメインに使った『細川家史料』が出典です。七月九日付。●細川忠興の手紙一号「手紙を読

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