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日記一覧

○「関ヶ原合戦」関連の攻城戦で「城を攻めたが、落とせずに、仲介者を通して和睦した」という例。この言葉が示す状況は「城攻めがあった。城が落ちなかった。和睦(もしくは降参)で終わらせた」の事象であって、それをあえて「城攻め側」の視点で語るがゆえ

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○合戦の通説解釈が引きずってきた「武士は降参しない」の思い込み。その言葉の表層的な意味により、籠城する城将の側にこそ「しない」という意思決定があるかのごとき「誤解」が生じていたのです。つまり、能動態の「しない」という言葉のせいで、実際には「

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○通説のみならず、江戸時代に書かれた記録では、攻城戦で「戦わずに降参するケース」がないことにされているようですので、城将が戦死していないケースでは、実際に戦闘があったのかどうかを疑ってみるべきでしょうね。その逆を言えば、城将が戦死しているケ

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○城攻めには、状況に応じた戦法の別があります。よって、的確な戦法を選ぶなら、城は落とせるものでしかないことになります。ゆえに籠城軍も、無理な戦闘を選ばずに、「戦わずして降参」の手段がありえるということ。織田信長の上洛戦で「降参退去」した三好

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○城攻めには、状況に応じた戦法の別があって、的確な戦法を選べば、ほぼ確実に「城は落とせるもの」でしかないようです。しかし通説では、落ちたの落ちなかったのと「結果の違い」を言うんです。たとえば「関ヶ原合戦」での攻城戦。●西軍の伏見城攻め「十日

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○史料根拠は先に提示しました。ここからは総論です。「細川忠興・忠利往復書簡」の記述によって、城攻めにもパターンの相違があると判明しました。●Cランク「城の規模に比較して、城内の防衛兵力数が大きく不足する場合」●Bランク「防衛兵力数は充足する

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○「島原の乱」に関する手紙史料なのに、最後には「信長の話」になりました。具体的なことは書いてないのですが、理解するためのヒントは、確かにあります。○「岐阜、関ヶ原、豊後、大坂」で、忠興がやった論功行賞を、忠利は「見ていた」と書いていました。

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○「往復書簡」の内から「詮索」に関する部分を、改めて提示します。●忠利九三一「4月12日」第一文の抜粋「このたび有馬の城で、よく勤めた者たち(の状況)を聞き届けることを、(私が)先延ばしにしている、と(忠興様は)思っておられることでしょう」●

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