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日記一覧

○石田三成が失脚したのには、失脚しただけの理由があったようです。だとしても、領地没収のような重い処分には至らず、居城での謹慎を命じられただけでしたので、いずれは返り咲きのチャンスもあったのだろうと思います。しかし「その時を静かに待つような石

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○定説どおりに解釈するときのキーワードは「天下取り」です。この場に書いてきたほうの話では、キーワードが「律儀さ」となります。家康が「天下取りを狙う野望で動いていた」のなら、「それを阻止するために挙兵した」石田三成のほうにこそ正義があります。

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○伏見にいる徳川家康に対し、大坂にいる前田利家が睨みをきかせているあいだは、家康もあからさまに天下取りヘ動くことはできなかった、と定説は言うわけです。しかし、徳川家と豊臣家の対立もなく、家康に天下を狙う野心もなく、ひたすら「秀吉の遺言」を「

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○石田三成が挙兵した直後、七月十七日付で各地に送った「家康弾劾状」は、通称「内府違いの条々」と呼ばれています。前回は「家康が勝手に領地を与えたこと」の批判文を取り上げましたが、今回は別の条文を取り上げます。講談社学術文庫『関ヶ原合戦』の現代

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○「関ヶ原の合戦は、昼過ぎに小早川が寝返ったことで、勝敗が決した」という話を、事実であるとして「固定」することには、定説賛成派も反対しないだろうと思います。しかし、小早川秀秋が「律儀である」のか「律儀でない」のか、人物像の違いによって、前後

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○直接の史料ではありませんが「孫子の兵法」に触れておきます。「関ヶ原の合戦」の理解を誤らせる最たる原因が、「合戦の理解を間違えていること」だからです。そもそも、この場に書いている文章は、自分の作業としての「史料分析」なので、自分にとっては「

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○関ヶ原の合戦よりわずかに二年前、慶長三年の八月に豊臣秀吉が亡くなりました。「秀頼のことを頼みます」と書いた遺言状は、よく知られています。●秀吉の遺言状「秀頼のこと、成り立っていけるように、ここに書きつけた者たちに頼み申します。なんであれ、

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○明治の日本陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史関原役』の巻末に、一号から一三五号までの手紙史料が翻刻されています。慶長五年四月の一九号から始めて、ラストは慶長五年十一月の一三五号。一通りの史料精査が終了しました。ここに収録されていなかった「徳

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○去年の九月から始めて、九ヵ月。こればっかりはやっていられないからこそ、この場で定期的に書くと決めて、少しずつ進めてきました。『日本戦史関原役』の収録史料も、いよいよ最後です。本多忠勝が黒田如水に宛てた手紙で、十一月十四日付。最後の最後は、

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○島津討伐の遠征軍が、鹿児島に向けて出発したようです。家康が黒田如水に宛てた手紙。十一月十二日付。●手紙一三五号の一番「たびたびの御報告、その内容を理解しました。柳川のことは、人質を受け取り、立花を引き連れて薩摩方面へ出て、加主計、鍋島加賀

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○毛利家に、周防と長門の二ヵ国領有を認める「安堵状」が発行されたのは十月十日。遅れて十二日に、井伊直政が「添え状」を書いていました。これに返信したと見られる輝元の誓詞があります。宛名は井伊直政で、十一月五日付。●手紙一三四号「敬白天罰起請文

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○十月二十四日付で、家康が伊達政宗に宛てた手紙です。二十二日に島津忠恒が鹿児島で最初の手紙を書いたばかり、まだまだ大坂へ届くはずもなく、島津の問題は何も進展していないころ、東北の政宗が状況を報せてきたようなんです。●手紙一三三号「四日の御手

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○関ヶ原で戦闘参加した島津惟新入道義弘。通説や俗説で語る話は、とりあえず脇に置いておきますが、ともあれ、九州の鹿児島県まで逃げ帰ったわけです。その後に当主の島津忠恒と、隠居の龍伯義久が、連名で弁明書を書いたようです。宛名は寺沢広高で、長崎県

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○差出人が不明。宛先も不明。日付も不明な往復書簡があります。●手紙一三一号の一番「このたびは上方への御出兵、御つつがなく御帰陣で、めでたく思います。あなた様のことは、高麗以来、御芳志をいただきましたこと、少しも失念しておりません。このたびの

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○裏切りを前提にすれば、当然ながら「裏切りの見返り」が想定されます。「一〇七号」起請文の記述「内府直之墨付輝元へ取候て可進候」は、「領国の全部を保障します」の意味に解釈できます。だったら無理に戦う必要もないので、毛利勢は決戦に参加しないのみ

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○毛利家の処分について、定説を再確認しておきます。まず家康が、黒田長政を使って、吉川広家に「裏切り工作」を仕掛けました。これに応じた吉川へ、決戦の前日、井伊直政と本多忠勝が「領国を保障する」と誓詞を送りました。よって吉川は、南宮山の毛利勢を

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○十月二日に家康が書いた手紙。宛名は細川忠興。『徳川家康文書の研究』収録。●家康の細川宛て「御手紙を読みました。すなわち小野木が城へ入ったため、ただちに取り巻かれたとのことですが、もっともなことです。どのようにも、当然の処置を命じられますよ

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○井伊直政、本多忠勝、榊原康政の三人が連名で、福島正則と黒田長政へ宛てた手紙です。九月三十日付。●手紙一二六号「薩摩へ手をつけるにあたり、広島まで中納言が出兵を致されますので、太閤様の御定めどおりに、道すじの諸城に番手を入れてください」「御

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○次の手紙は『徳川家康文書の研究』の収録です。家康が黒田如水に宛てたもので、日付は九月二十八日です。残念ながら原本史料ではありません。●家康の如水宛て「このたび大友が、その地へ働いたところを、一戦なされて、多くを討ち取られ、特に大友を生け捕

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○島田重次、加藤正次、阿部正広、大久保長安。徳川家の旗本衆である彼らが、連名で清水寺に宛てた手紙です。九月二十七日付。●手紙一二二号「このたび内府様に対して御無沙汰を致した者たちの金銀、同租税など諸産物、御預かりでしたら早々にお出しになりま

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○東軍の豊臣軍団が、輝元に宛てた起請文。藤堂高虎、浅野幸長、黒田長政、福島正則、池田輝政が名前を連ねています。九月二十五日付。●手紙一二〇号「起請文の前書き」「井伊兵部少輔と本多中務大輔の誓詞に、いささかも偽りはないこと」「内府様に対して、

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○家康が小早川秀秋に感状と見られる手紙を送り、「今後は息子の秀忠と同じ扱いにしますから」と書いて、畿内では「なんらかのかたちで戦争にひと区切りがついたのではないか」と思われる九月二十四日のこと。九州では、熊本県にいる加藤清正が、佐賀県の鍋島

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○これは原本史料と見られます。現物を見たことはありませんが、歴史解説本に掲載された写真で見ています。戦国史の定説解釈を、少しも信じていない身ですけど、古文書学の筆跡研究は信用しております。家康が小早川秀秋に宛てたもの。●手紙一一一号の三番「

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○関ヶ原で敗走した石田三成は、居城の佐和山に戻ることもなく、滋賀と岐阜の県境付近を逃げていたという話。しかし発見されて、捕縛されました。その情報を家康が報せた手紙があります。宛名は池田輝政と浅野幸長で、九月二十二日付。●手紙一一七号の一番「

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○毛利輝元が、徳川家の井伊直政と本多忠勝、および豊臣軍団の福島正則と黒田長政、それぞれに宛てて起請文を書いた九月二十二日。この日に家康の書いた別件の手紙があります。宛名は長野県川中島の森忠政です。●手紙一一六号「御手紙を読みました。大変に喜

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○毛利輝元の書いた起請文が二通あります。どちらも九月二十二日付。まず一方は、井伊直政と本多忠勝に宛てたものです。●手紙一一四号「敬白霊社上巻起請文の前書き」「このたび先手において、私の胸中に従った吉川侍従と福原式部少輔が、御理解をいただきま

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○関ヶ原決戦で勝利して、石田三成らの軍勢を討ち破ったからといって、戦争が終わったわけではありません。西軍の総大将は毛利輝元であるのだし、まだ毛利軍との戦いが残っているのです。ただし、定説では「吉川広家が裏切りに応じたので、決戦以前に毛利軍と

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○小早川秀秋の重臣「稲葉正成」に宛てて、家康の書いた手紙。九月十七日付。●手紙一一一号の一番「村越茂助のところへ来た手紙、読みました。このたび中納言殿が忠節となったことは、あなたの考えによる働きであったからだそうで、とても喜ばしいです。なお

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○関ヶ原決戦の勝利報告は、もちろん各地に送られているでしょうが、『日本戦史関原役』が収録するのは一通だけです。家康の伊達政宗宛て、九月十五日付。●手紙一〇九号「今日十五日の昼どき、濃州の山中にて一戦し、備前中納言、島津、小西、石治部の兵団、

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○伊達政宗の手紙「一二五号」の一部を再録。「去る二十五日、長井へ出る口の下関という所に出兵し、兵団を少し派遣して湯ノ原の城へ押し寄せて、皆殺しにしてやろうと思いました。その地の者どもは、当家譜代の経緯があって、しきりに懇願してきましたので、

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