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日記一覧

○細川忠興の手紙に「信長の御代には武辺の詮索が一切なかった」の言葉。これを考察するために、信長の合戦も含めて考えてきました。信長は「味方に被害が出ないように戦う」ので、家来たちの「戦った証拠」を調べて詮索しても、無意味だったと見られるのです

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○長篠合戦のときに、信長が「味方を一人も破損させない」と言ったという『信長公記』の記述。わざわざ信長が、こんなことを「言った」のには、深い事情があるんです。『信長公記』の著者である太田牛一は、信長の側近ではありませんので、なぜ信長が「こう言

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○「火のないところに煙は立たず」と言うごとく、フィクションというものは、適当な「思いつき」だけで書いているとも限らないもの。『甫庵信長記』を書いた小瀬甫庵が、「参考史料として『信長公記』を読んでいた」と仮定しましょうか。すると『信長公記』の

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○長篠合戦の通説は「武田軍の騎馬突撃を、織田軍が鉄砲三段撃ちで撃破したので、壊滅的に被害を受けた武田軍が敗走した」というものですよね。否定する説もいろいろとありますが、近年でも「新しい解釈が確定した」わけでもないですし、何より「この通説」が

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○「信長の時代に詮索はなかった」と書いたうえ、自分も「詮索をしたことがない」と書いた忠興。その手紙を読んだ忠利が「本当になかったのですか?」と問い返した返書「九三五番」五月十三日付。そこに忠利が「教えていただきたいことばかり」と書いたため、

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○「信長の御代に詮索なし」という記述が、忠利の手紙「一五二一番」五月一日付にありました。これが熊本に届いたので、忠利が返事を書いています。●忠利九三五「5月13日」前文〜第一文前文「五月一日の御手紙、謹んで頂戴致しました。まず何より御息災でお

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○合戦のことを、私たち現代人は、本当には知らないんでしょうよ。●忠興一五二一「5月1日」第三文〜第四文「一つ、松倉、寺沢のこと、詳しく江戸でも伺っております」「一つ、伊豆殿、左門殿が(そちらへ残って)することも、こちらでよく聞いております」

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