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日記一覧

○前回に見た「手紙八二号」は、八月二十五日付で上杉景勝が書いたもの。一部に「後世の加筆」が挿入されてしまったと見られるものの、元は「本物の手紙史料」だった可能性が高いもの。もし本当にそうだとすれば、「景勝は、八月二十五日ごろになって、ようや

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○定説解釈において、南宮山に布陣した吉川広家は、関ヶ原決戦にも参加しなかった、とされています。しかし、そもそも吉川軍が「南宮山にいたのかどうか」も、実ははっきりとしていませんし、「裏切り工作の根拠」とされてきた手紙史料の内容は、定説で言うの

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○まずは家康が、栃木の大田原晴清に宛てた手紙。九月十三日付。●手紙一〇六号「手紙の到来、喜ばしいです。それというのも、そちらでは何も変わりがないということなので、納得です。ますます防備などに油断なく命じるべきでしょう。こちらでは、今日十三日

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○もう一回分、お付き合いくださいませ。石田三成の増田長盛宛て、九月十二日付。冒頭もダメなら中ほどもダメ、最後までダメでしかない偽書史料ですが。●手紙一〇四号後「たびたび申し伝えているように、金銀、米、銭、与えるのなら、このときです。私なども

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○前回の手紙、石田三成の増田長盛宛て、九月十二日付。冒頭から「丸わかりの偽書でしかないもの」でしたけど、一応、続きを見ていこうと思います。●手紙一〇四号中「味方の勢州江州の人数が加わってくれば、なんとか手段もあると思っているのに、のびのびと

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○石田三成が書いたとされる長い手紙があります。日付は九月十二日で、宛名は増田長盛です。このとき石田は大垣城にいて、増田は大坂城にいたと見られています。あまりに長い手紙なので、三回に分けて、順に見ていこうと思います。ただし先に言っておきますが

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○東美濃の妻木貞徳が、また報告してきた模様。家康の返事の手紙、九月八日付。●手紙一〇三号「たびたびの手紙、喜んでおります。それも、そちらの高山の城をあけたことについて、あなたの兵が移られたそうで、納得です。ますます油断のないようにするのが肝

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○家康の出陣、および、この時期の状況について、確実な史料を見ておきましょう。『細川家史料』が収録している細川忠興の手紙で、日付は九月八日です。●細川忠興の手紙三号「去る一日の手紙を読んだ」「内府が御出馬だそうで、すぐに報せてきたことに満足だ

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○まずは、この手紙から。九月三日に家康が書いたもので、京極高知宛て。●家康の京極高知宛て三日「御手紙を拝見。このたび濃州方面で、皆で話し合われて、岐阜城を即時に乗り崩されたこと、いさぎよいことです。特に、大津へ手紙を送られたそうで、念入りに

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○時間が大きく戻りまして、八月八日付の手紙です。家康が書いたもので、宛名の石川貞清は、愛知県の北部にある犬山城主でした。●手紙五九号「先日に飛脚が到来した際、返事を書くべきだったのですが、飛脚がそのまま帰ってしまったので、それができませんで

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○前回は「水攻め」に触れましたが、それについて書く前に、この手紙を見てもらいたいのです。石田三成の書いたもので、日付は九月二日です。●手紙九九号「このたび、あなたは計略を使い、地元の郷民を扇動し、敵の陣の背後を攻撃してください。勝利のときは

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