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2015年12月01日16:16

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関ヶ原史料「落城の実際」伏見落城五二号

○時間を巻き戻して、落城の翌日、八月二日の手紙です。伏見城を攻め落とす戦闘で、功績のあった二人の武将に宛てたもの。佐賀県の鍋島勝茂と、福岡県小倉の毛利勝永です。書いたのは三奉行の長束正家、増田長盛、前田玄以の連名です。

●手紙五二号の一番「伏見の本丸に乗り込まれ、崩してしまわれて、西ノ丸に逃げ落ちていたところを鎗で戦われて、お手勢で首を百ほども討ち取ったそうですね。お手柄は言うまでもありません。これらのことは各位に申し伝え、それから申し述べますので、今はいろいろ書くことをしません」

○一読してわかるとおり、「伏見城を落とした日」を書いていません。手紙の日付が八月二日なので、それ以前だとわかるだけ。三奉行は大坂城にいるわけですが、伏見から大坂までは半日あれば手紙が届きますので、「二日に落ちて、すぐに大坂へ報告されて、すかさず三奉行が返事を書いた」と考えれば、落城は二日の可能性さえ出てくるのです。定説で「落城は一日」となっているのは、前回の「手紙五八号の一番」に「一日の午後に乗り込んだ」とあるからですね。

○もう一通、関連の手紙があります。宛名は同じで、鍋島勝茂と毛利勝永なのですが、こちらは毛利輝元と宇喜多秀家が連名で書いたもの。日付は八月五日です。

●手紙五二号の二番「一昨年来、内府は太閤様の御定めに背き、上巻の誓詞に違反して、好き勝手な政治をしてきたので、御定めを守っていくために、戦争をすることとなりました。第一に、伏見の御城に御命令で置かれていた留守居を追い出して、関東の、おそらく栃木人の者たちは、御座所を踏み荒らしたのです。許されないことなので、今回、城ぎわまで各人が押し詰めて、即座に乗り込んで崩し、鳥居彦右衛門をはじめ、八百余りを討ち果たされましたこと、比類のないことだと思います。特にあなたのお手勢は、粉骨砕身の至りというもの、秀頼様の御喜びも大変なものです。よって金子を二十枚、合わせて御領地三千石が与えられました。なお、ますます御忠功にぬかりなきよう、仰せられておりますことを書いて、以上このとおりです」

○この手紙は、いわゆる「感状」の一種だと思われます。戦闘の手柄を認定し、表彰するものです。よって、戦闘状況をいくらか書いてありますが、この手紙でも落城の日時はないんです。ただ、わずかな記述から、推測できることが、いくつかあります。城に「乗り込んで崩した」と書いてあるのは一番でも同じですが、原文は、一番が「本丸を被乗崩」で、二番は「城際迄各被押詰即時に乗崩」です。この表記の違いで大きいのは、一番では「本丸まで乗り崩した」という「戦闘の結果」を書いていて、二番では「城ぎわまで押し詰めて、即時に乗り崩した」という「戦闘の開始」が書いてあることです。この意味は、前日まで城を遠巻きにしていた部隊が、夜明けのころ、いきなり城に押し寄せていき、そのまま城内に突入を始めた、ということ。こんな城攻めは滅多にないので、だから二番には「比類のないことだ」とあって、「もの凄いことだよ」と絶賛しているのです。ところが「城攻めの実際」を知らない現代人は、「鳥居たち八百人を討ち取ったのが、もの凄い大活躍の働きだ」の意味に勘違いするんですね。だって時代劇の城攻めは、いきなり城内に攻め込んでいくのが「普通のこと」でしょ?

○島津惟新善弘の「手紙一九号」では、伏見城の留守番をするのに「百石につき一人役」と書いてありました。当時の島津家の領地石高は、正確なところがわからないので、とりあえず五十万石と仮定します。よって五千人が必要だ、となるわけです。しかもこの数字は、各門に警備員を置いて、「立派に留守番をしていますよ」という「外聞を保つ」ための人数であって、「本気で防衛する人数」ではないのですよ。巨大な伏見城の防衛には、もっと多くの兵員が必要なのに、鳥居たち留守番部隊の人数は、二番の記述で八百余り。定説の根拠史料「手紙五八号の一番」の記述でさえ、千八百余りなんです。あまりにも少なすぎて、まったく防衛できないから、「いきなり攻め寄せられて、いきなり乗り崩された」ということなのです。それから一番には「西ノ丸に逃げ落ちていたところ」とあります。原文では「西ノ丸逃落候処」で、これを「逃げ落ちた」と訳すのか、「逃げ落ちていた」と訳すのか、そこが問題なんですね。「逃げ落ちた」とすれば、「鳥居たちは本丸にいて、本丸が落ちたから西ノ丸へ逃げた」の意味。すると「五八号の一番」に「鳥居は石垣を伝って逃げた」の文章があったわけです。でも「逃げ落ちていた」とすれば、「戦闘前から本丸を捨てて、とっくに西ノ丸へ逃げていた」の意味なのです。そう考えたときに興味深いのが、二番の記述「栃木人の者たちは、御座所を踏み荒らした。許されないことだ」で、原文だと「下野人之者共御座所を踏荒候段無是非次第」です。「天下人の城」伏見城の、本丸の、かつては天下人の秀吉様がいた「御座所」を、「鳥居たち下野から来た無粋な関東者が、平気で部屋に入って踏み荒らしやがったのだ。なんという無礼なことだ。許さんぞ」と言っているわけですね。ゆえに鳥居たちを討ち果たす…。

○現代人は「御座所に入ったぐらいで討伐なんて」と思います。一方では「戦争なんだから玉砕が名誉なんだ」と思うわけです。だけど、手紙史料に書いてある内容は、「現代人の思うこと」であるはずもなく、戦国当時の考え方で書かれているんです。兵力もないのに籠城してもムダなこと。降参退去して城を明け渡すほうが普通の話。しかし「御座所を荒らす不敬行為は許されない」ので、降参しても命の保障がないわけで、鳥居たちは「戦死のほうがマシだ」と悲壮な決意。防衛する気もないし、できる兵力もないから、西ノ丸にいたのではないでしょうか。ところで、手紙には「鳥居たちが御座所を荒らした」と確かに書いてありますが、本当に鳥居たちは、そんなことをしたのでしょうかね。だって、これで石田三成の思惑どおりじゃないですか。輝元も秀家も「内府と戦争」を宣言したわけでしょ?
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