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日記一覧

○小早川秀秋の重臣「稲葉正成」に宛てて、家康の書いた手紙。九月十七日付。●手紙一一一号の一番「村越茂助のところへ来た手紙、読みました。このたび中納言殿が忠節となったことは、あなたの考えによる働きであったからだそうで、とても喜ばしいです。なお

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○関ヶ原決戦の勝利報告は、もちろん各地に送られているでしょうが、『日本戦史関原役』が収録するのは一通だけです。家康の伊達政宗宛て、九月十五日付。●手紙一〇九号「今日十五日の昼どき、濃州の山中にて一戦し、備前中納言、島津、小西、石治部の兵団、

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○伊達政宗の手紙「一二五号」の一部を再録。「去る二十五日、長井へ出る口の下関という所に出兵し、兵団を少し派遣して湯ノ原の城へ押し寄せて、皆殺しにしてやろうと思いました。その地の者どもは、当家譜代の経緯があって、しきりに懇願してきましたので、

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○米沢から出陣した直江兼続が、最上義光の山形城に包囲布陣をかけたのは、直江の書いた手紙によると九月十四日です。義光は当然、最も近くにいる味方「伊達政宗」に、緊急事態を報せたはずでしょう。よって政宗が、この状況を家康に報せた手紙があるわけです

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○今度は東北に目を向けます。直江兼続の書いた手紙が、上杉家の家史『景勝公御年譜』に掲載されています。日付は九月十五日です。●直江の手紙「去る十三日に、最上領の畑谷城を乗り崩し、殲滅を命じ、城主の江口五兵衛父子を含め、首を五百余り討ち取りまし

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○時間が先へ進んでしまいますけども、九月二十三日の手紙です。書いたのは加藤清正で、宛名は黒田如水です。九州での動きを、流れのついでに見ておきましょう。清正は、熊本の南方にある小西行長の宇土城へ、出陣している模様です。●手紙一一九号「去る十九

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○加藤清正は熊本にいて、黒田如水は大分県の中津にいました。今度は如水の手紙です。宛名が藤堂高虎なので、藤堂家の記録から採録されています。日付は九月十六日。関ヶ原決戦の翌日ですが、当然、如水はそれをまだ知らないわけです。●手紙一一〇号「清洲で

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○九州の熊本にいる加藤清正が、状況を伝えている手紙です。徳川の家来、本多正信と西尾吉次に宛てたもので、九月七日付。●手紙一〇二号の一番「わざわざ申しあげます。どのあたりまで御出馬なされましたでしょうか。お聞きしたく思い、お手紙しました」「私

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○岐阜県西部の関ヶ原で、東西の両軍が衝突したのは九月十五日です。そのころにはほかの地域でも、別の戦闘が起こっていました。細川幽斎の丹後田辺城で包囲戦。京極高次の近江大津城で攻城戦。これらについては残念ながら、戦闘の詳細を記した手紙史料はない

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○大変な話になってきました。まだ断定はできませんが、吉川広家は「裏切り工作に応じたから動かなかった」のではなく、「戦略構想の崩壊で、動けない状況に陥っていた」可能性が出てきたわけです。考えてみれば、「秀忠は関ヶ原に間に合いませんでした」とい

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