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日記一覧

○フィクション作品で「本能寺の変」をやるとき、たいがいは「信長の最期」がクライマックスシーンとなります。その直後の展開を、細かくやっていくのは、まずないでしょうね。しかし「歴史の理解」をするなら、そこも重要ですよね?●『兼見卿記』六月二日「

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○明智光秀のほうが「自発的に動いた」と仮定しても、それが「義昭を復権させることを目的として、信長を討った」の意味になるとは断定できません。光秀には、信長を討たねばならない「何か別の理由」があって、あくまで「その後の体制をどうするか」と考えた

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○「光秀の土橋宛」が「写し」しかなかったころは、何を言ってもムダだったんです。なにしろ「国語的に読解」した意味において、「光秀単独行動説=室町幕府再興説」という「トンデモ」な説になってしまうからですね。私だって偽造史料の可能性を疑いましたも

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○最近では「黒幕説」という言い方をしないんだそうです。「黒幕」と言ってしまうと、まるで光秀が「操られているだけ」のイメージになってしまうから、光秀も参加している「ある種の勢力」内での「共同謀議説」と言うんだそうな。よって「足利義昭黒幕説」の

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○手紙の理解が進んできて、意味不明だった本文の第一文章も理解できそうです。●六月十二日「明智光秀の土橋平尉宛」本文中の第一文章「一、其国儀、可有御入魂旨、弥被得其意、可申談候事」○「その国」と表記して、具体的に国名を書かなかった光秀。次の「

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○新発見の「光秀の原本手紙」を「国語的に読解」する限り、どうにも「素っ気ない感じ」の印象を受けてしまいます。光秀が、どんな事情および状況で「信長を討った」にしろ、宛名の人物「土橋平尉」が、せっかく「味方になります」と報せてきたのに、それを歓

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○手紙史料の場合、本人の筆跡が確認された「原本」なら本物ですが、「写し」などは「後世の人物が勝手に書いた」偽造史料であることも少なくありません。リアルタイムに書かれた手紙史料の価値は高くても、「原本」でなければ安易に使えないのです。その点、

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○新発見の「明智光秀の原本手紙」をさらに読解するために、宛名の人物「土橋平尉」が何者であるのか、その点を見ていきます。関係するところを再度引用。●六月十二日「明智光秀の土橋平尉宛」本文中の第二文章「一、高野、根来、其元之衆被相談、至泉河表御

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○前回に見た武田勝頼の手紙「四月六日付」は、天正七年とされています。文章の中に「荒木村重が信長に敵対した」の情報があるからですね。『信長公記』の記述では、荒木の離反を「天正六年十月末ごろ」としていますし、翌七年の年末には、おおよそ制圧されて

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○室町幕府の第十五代将軍「足利義昭」は、信長によって追放されてしまったのち、毛利家の保護を受けて、備後国(広島県)に落ち着いたそうです。天正十年当時も、そこにいたものと見られます。ただし義昭は「再び京へ戻って、将軍の地位を復権すること」をあ

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○「明智光秀の手紙原本」にあった「上意」の言葉。普通なら「最高位者の御命令」を意味しますが、それが誰なのかを特定せずに、仮に「上様」として、文意を読解してきました。しかし今度は「上様が誰か」を読解してみようと思います。○天皇のことだったら「

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○原本発見の「明智光秀の手紙」を読んできました。残るは「追伸」です。●六月十二日「明智光秀の土橋平尉宛」追伸「尚以、急度御入洛義御馳走肝要候。委細為上意、可被仰出候条、不能巨細候」○ここで光秀は、前文にあった「上様の御入洛の件」を繰り返して

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○先に「前文」だけを見た「明智光秀の手紙」です。今度は「本文」の読解です。●六月十二日「明智光秀の土橋平尉宛」本文「一、其国儀、可有御入魂旨、珍重候。弥被得其意、可申談候事」「一、高野、根来、其元之衆被相談、至泉河表御出勢尤候。知行等儀、年

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○頭の中にあるデータを整理するのに、「書くこと」でしかできない人間には、とにかく実際に「書いてみる」しかないんですよね。二年前に「新発見」と発表された「明智光秀の手紙」の内から、前文だけを、「写し」の翻刻で引用します。●六月十二日「明智光秀

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○二年前(二〇一七年)の九月十二日、読売新聞に記事が出ました。『「本能寺」は室町再興のため』の大見出しの下に、「光秀の手紙原本発見」と太ゴチックで。○発見された「明智光秀の手紙」とは、「六月十二日付土橋重治宛」で、その内容から「本能寺の変が

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○羽柴秀吉が「本能寺の変」の実行的計画者(黒幕)であるという説は、ともかくとして、秀吉が「なんらかのかたちで事件に関係していた」と解釈する向きは少なくありません。秀吉が事件の一報を得たのが「六月三日の夜」とされるからですね。この「日付」を否

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○「実は信長、本能寺から脱出していた」とかってヨタ話ではありません。信長の敗死は動かしようもないことです。ただ、とても興味深い手紙がありましてね。●六月五日「羽柴秀吉の中川清秀宛」「自是可申与存刻、預示快然候。仍只今京より罷下候者、慥申候。

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○「本能寺の変」は秀吉が黒幕だった、という陰謀説があります。フィクション作品として見る限りは、面白いんでしょうけどね。実際には成立しませんので。○私が合戦監修をしたマンガ作品『信長戦記』には、前田利家が出てこないんです。信長ネタのマンガで「

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○天正十年、備中の高松城に対して、秀吉がやったとされている「水攻め」です。○まず問題となるのが「水攻め」の意味です。これを「城に攻撃を仕掛ける手段の一つ」と解釈するならば、具体的に「水を使うことで、どういう攻撃をすることになって、城が落ちる

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○防備の足りない城は、乗り崩されます。防備を固めていても、干し殺しをくらえば、最終的には落ちることになります。どちらにしても、城は「落ちる」しかないのです。それがわかっていてもなお、城将が「籠城を選択する」のは、味方の軍勢が「来援すること」

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○天正九年「羽柴秀吉の鳥取城攻め」は、六月二十五日に出陣して、十月二十五日の落城。約四ヵ月に及ぶ「干し殺し」で、城が落ちたわけです。●『信長公記』巻十四「城中より降参の申し様、吉川式部少輔、森下道祐、日本介三大将の頸を取進すべく候間、残党扶

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○物語の中の「奇襲」を肯定する人たちにとって、大軍の動員には「なんの意味もない」ようなもの。だから「力の誇示」という解釈をするみたいですね。動員兵力が増えるほど「経済的な負担になる」という理解はない模様。この点を考慮すれば、戦国大名は「最低

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○若狭へ出陣したら、謀反は嘘でした。朝倉の「たくらみ」を知って、討とうとしたら、浅井に裏切られました。京都へ逃げ帰った信長は、岐阜に戻ると、次に北近江へ進攻します。そして「姉川合戦」です。このとき「朝倉景健の八千」が参陣しています。ちなみに

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○「金ヶ崎の退口」は、信長が「金ヶ崎にいたとき」に「浅井長政の裏切りを知った」というのが通説。しかし信長は、このとき金ヶ崎にはいませんでした。毛利へ送った手紙に「金前には番手入置」の記述です。これは「城を確保するために、番をする部隊を置いた

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○信長の「越前出兵」について、さまざまな史料の「記述内容」から組み立ててきました。その結果、かなり複雑な展開になりました。『信長公記』の著者「太田牛一」が、このときも従軍していたのなら、もっと正確な記録を残してくれたことでしょう。残念ながら

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○「越前出兵」の複雑な状況が、次第に明らかになってきましたね。「若狭で謀反」の報告を受けた信長は、将軍の「成敗命令」で出陣してきたのに、報告は嘘だったのです。朝倉義景が圧力をかけて、武藤友益に嘘の報告をさせたのです。信長は「朝倉討伐」を決意

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○「大敗」と「大勝」と真逆の記録を残す『言継卿記』と『信長公記』ですが、どちらの史料も「二十五日に信長が越前で合戦をした」という点では一致します。よって「二十五日に越前敦賀へ越境進攻した」ことを、ともかく「事実」だと仮定してみましょう。その

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○元亀に改元する直前、永禄十三年の四月二十日。京都にいた信長は、直接に京都から出陣しました。このときの「越前出兵」が、実は「信長に若狭へ出陣させて、そこから越前へ進攻させる」という「朝倉義景の計略」だったことが「解読できた」わけです。すなわ

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○実は複雑な事情だった「信長の越前出兵」です。小瀬甫庵は「単純な話」に作り変えてしまうし、大村由己は「秀吉の意向を受けて、話を盛りまくる」のだそうですから、正確な記録を書こうという意思もないのでしょう。その点で「記録性の高い」のが太田牛一で

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○姉川合戦に関連する「信長の小谷城攻め」で、敵の浅井長政が「なぜ籠城したのか?」の疑問点。その答えを考える以前の問題、実は「信長の越前出兵」の段階からして理解が違っていたのです。越前の敦賀から退却してきた信長が、帰京後に毛利へ送った手紙の第

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