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日記一覧

○明治の日本陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史関原役』の巻末に、一号から一三五号までの手紙史料が翻刻されています。慶長五年四月の一九号から始めて、ラストは慶長五年十一月の一三五号。一通りの史料精査が終了しました。ここに収録されていなかった「徳

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○去年の九月から始めて、九ヵ月。こればっかりはやっていられないからこそ、この場で定期的に書くと決めて、少しずつ進めてきました。『日本戦史関原役』の収録史料も、いよいよ最後です。本多忠勝が黒田如水に宛てた手紙で、十一月十四日付。最後の最後は、

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○島津討伐の遠征軍が、鹿児島に向けて出発したようです。家康が黒田如水に宛てた手紙。十一月十二日付。●手紙一三五号の一番「たびたびの御報告、その内容を理解しました。柳川のことは、人質を受け取り、立花を引き連れて薩摩方面へ出て、加主計、鍋島加賀

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○毛利家に、周防と長門の二ヵ国領有を認める「安堵状」が発行されたのは十月十日。遅れて十二日に、井伊直政が「添え状」を書いていました。これに返信したと見られる輝元の誓詞があります。宛名は井伊直政で、十一月五日付。●手紙一三四号「敬白天罰起請文

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○十月二十四日付で、家康が伊達政宗に宛てた手紙です。二十二日に島津忠恒が鹿児島で最初の手紙を書いたばかり、まだまだ大坂へ届くはずもなく、島津の問題は何も進展していないころ、東北の政宗が状況を報せてきたようなんです。●手紙一三三号「四日の御手

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○関ヶ原で戦闘参加した島津惟新入道義弘。通説や俗説で語る話は、とりあえず脇に置いておきますが、ともあれ、九州の鹿児島県まで逃げ帰ったわけです。その後に当主の島津忠恒と、隠居の龍伯義久が、連名で弁明書を書いたようです。宛名は寺沢広高で、長崎県

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○差出人が不明。宛先も不明。日付も不明な往復書簡があります。●手紙一三一号の一番「このたびは上方への御出兵、御つつがなく御帰陣で、めでたく思います。あなた様のことは、高麗以来、御芳志をいただきましたこと、少しも失念しておりません。このたびの

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○裏切りを前提にすれば、当然ながら「裏切りの見返り」が想定されます。「一〇七号」起請文の記述「内府直之墨付輝元へ取候て可進候」は、「領国の全部を保障します」の意味に解釈できます。だったら無理に戦う必要もないので、毛利勢は決戦に参加しないのみ

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○毛利家の処分について、定説を再確認しておきます。まず家康が、黒田長政を使って、吉川広家に「裏切り工作」を仕掛けました。これに応じた吉川へ、決戦の前日、井伊直政と本多忠勝が「領国を保障する」と誓詞を送りました。よって吉川は、南宮山の毛利勢を

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○十月二日に家康が書いた手紙。宛名は細川忠興。『徳川家康文書の研究』収録。●家康の細川宛て「御手紙を読みました。すなわち小野木が城へ入ったため、ただちに取り巻かれたとのことですが、もっともなことです。どのようにも、当然の処置を命じられますよ

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