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日記一覧

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、豊臣軍団が「竹ヶ鼻城包囲戦」を仕掛けるにあたって、どんな想定をしたのかを、史料から分析できる範囲で前回に書きました。今度は仕掛けられた側、織田秀信の対応を見ていきます。●七三号一番8月20日「差出」島

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、前哨戦の「岐阜城攻め」は、想定外の状況変化によって「偶発的に派生した展開」だったと見られます。そもそも豊臣軍団が想定していたのは竹ヶ鼻城包囲戦。それがなぜ、想定外になったのか。○囲碁を好んだ戦国大名

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、清洲を出陣した豊臣軍団は、最初に竹ヶ鼻城を落としたのですが、事前の想定よりも「かなり早く落ちた」ようです。実際に「どの程度の期間で落ちたのか」を詰めてみましょう。●五六号8月4日「差出」徳川家康「宛

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、清洲を出陣した豊臣軍団は、大垣へ出る通路上の「竹ヶ鼻城」を、最初に落としました。よって次は「大垣城に包囲」を仕掛けるべきところですが、なぜか「岐阜城の包囲」を選びました。そのことを「家康に報告する手

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、岐阜城攻めの端緒として、豊臣軍団は竹ヶ鼻城を狙った模様。現在の「東海道新幹線」岐阜羽島駅の近くです。東海道沿いの清洲から、中仙道沿いの大垣へ行く際、木曽川と長良川の渡河地点。交通の要衝地ですから、小

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、清洲城に集結した豊臣軍団は、最初に岐阜城を落としました。その流れで「関ヶ原決戦」に向かうことになりますので、順序として「豊臣軍団の岐阜城攻め」から、戦術の面で分析していきます。○まず、岐阜城を「攻め

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、いよいよ東西間の戦争の開始、岐阜城攻めに入りますが、その前に「基本」の説明です。本来、この文章は「仕事のための下調べ」なのですから、自分にとって「わかりきったこと」を書く意味はないのですけど、わずか

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、黒田長政が吉川広家に「裏切り工作を仕掛けている」とされてきた史料。この手紙の文意を正しく理解するためには、文中の「御弓矢此方勝手に罷成」を正しく現代語訳できる必要があります。ポイントが「勝手」の言葉

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、ついに重要な手紙にたどりつきました。黒田長政が吉川広家に裏切り工作を仕掛けたことの根拠史料とされるもの。●六一号一番8月8日「返信」徳川家康「宛」黒田長政●六一号二番8月17日「返信」黒田長政「宛」吉

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、八月八日には清洲城へ戻っている豊臣軍団の先行武将たち。彼らは「前線の状況把握」のため、すぐさま周辺大名に手紙を送ったと見られます。そのころの大坂の状況を見てみましょう。●五五号一番8月4日「差出」毛

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、栃木を出発し、東海道を西進した豊臣軍団の先行武将たちは、八月八日ごろに愛知県の清洲城へ到着しているようです。ここから彼らがどう動いていったのか、わずかな手紙史料で推測します。●六五号8月13日「差出」

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、ここまで分析してきた結果、「八月八日」という日が、一種のエポックとなってきました。いろいろ話が跳んで、あちこちで動きがありますので、一旦、整理しておきます。●六一号一番8月8日「返信」徳川家康「宛」

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、細川忠興が北陸へ行ったかどうかを考えるために、北陸戦の状況を確定しました。残る問題は、前田利長の出陣日。●三三号7月17日「差出」長束、石田、増田、前田「宛」別所吉治●細川家史料8月1日「差出」細川忠

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、細川忠興が「北国を通る」と手紙に書いていたとおりに、本当に北陸へ行ったかどうかを考えるため、前回は「前田利長の北陸戦」を解読しました。「丹後の救援」に出た利長は、石川県内の小松城を包囲封鎖し、次の大

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、細川忠興の「八月中の行動」を詰めるべく、前田利長の北陸戦を確認していきます。実のところ、北陸戦に関連する手紙は三通しかないのですが、それでも「重要な記述」があるんですよね。●細川家史料8月1日「差出

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、九州の杵築で細川家の家老「松井康之」が、大坂からの「明け渡し命令」を拒絶した八月八日ごろ、主君の細川忠興は、果たしてどこにいたのでしょうか。八月一日付の手紙に「幽斎への援軍となって、北国を通っていく

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、「細川問題」を丸ごとカットしたことで、定説は、黒田如水の動向も、立花宗茂の動向も、完全に見誤ってきたようです。九州に細川領のあることが、「九州で起こった合戦」に「根本的に関係している」という理解をし

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、前回までに「八月上旬の九州の状況」を見てきました。そもそも関ヶ原合戦が「天下取りの戦いではない」のならば、九州の大名は「半島出兵の後始末が終わっていない状況につき、外国への防備が第一任務となる」はず

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、八月四日付五一号二番が「正しくは八月二十日付ではないか」とのご指摘をいただきました。黒田如水が吉川広家に宛てた返書で、何度も取り上げてきた重要な手紙史料です。●五一号二番8月4日「返信」黒田如水「宛

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、九州の立花宗茂が「出陣した」の問題は、かなり難解なのですが、考えるうえで、一つのヒントがありそうです。●七三号一番8月20日「差出」島津惟新義弘「宛」本田(鹿児島)●七三号二番8月21日「差出」島津惟新

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、前回は「立花宗茂出陣の謎」に突き当たりました。今回は、これをもう少し詰めてみたいと思います。●七三号一番8月20日「差出」島津惟新義弘「宛」本田(鹿児島)○鹿児島の家老に宛てて、島津義弘が出した七三号

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、加藤清正が九州を出ることはなかったわけですが、九州から出陣した者もいます。●七三号一番8月20日「差出」島津惟新義弘「宛」本田(鹿児島)○島津義弘が、鹿児島の家老に宛てた手紙。この中に「長宗我部殿は総

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、九州の中津にいる黒田如水が、吉川広家に宛てた返事の手紙。これを分析していきます。●五一号二番8月4日「返信」黒田如水「宛」吉川広家○五一号二番は「伏見城攻撃の理解」で使った史料です。前文に「先月二十

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、このへんで九州の情勢についても確認しておきます。八月の半ばまでで、九州関係の手紙は六通です。●三二号7月15日「差出」毛利輝元「宛」加藤清正●三五号7月21日「差出」細川忠興「宛」松井康之●五一号二番8

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、蜂須賀家政の猪山城に向けての出陣命令を出したこと。ここから推定できる状況を詰めていきます。●四四号一番7月29日「差出」長束、増田、前田、毛利「宛」佐波広忠●四四号二番7月29日「差出」毛利輝元「宛」佐

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、今度は大坂の側、毛利輝元の八月上旬ごろの行動を詰めてみます。とはいえ、ほとんど手紙史料はないのですが…。○まず問題になるのが「四九号」八月一日付。宇喜多秀家と毛利輝元が連名で、鹿児島にいる島津家の当

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、今度は「前線に進んでいる豊臣軍団」の、八月中旬ごろの状況を詰めてみましょう。七月二十六日に栃木を順次出発したと見られる豊臣軍団。それから約半月後、彼らはどこにいるのでしょう?●九六号9月1日「返信」

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、家康の「八月中の行動」を詰めておきたいと思います。「八日の吉川情報」で、家康は「石田グループが当初からクーデターを画策していた」と認識した模様です。そして「十五日の妻木情報」により「ついに輝元も敵対

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、「使者の往来」と「宣戦布告」の点から「戦争の始まり方」を考えたとき、定説とは違った状況が見えてくるのみならず、その状況に一致する史料記述が「確かにある」ことにも気づきます。○家康は当初、あくまで「石

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○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、八月上旬における「大坂の行動」を考えていくにあたって、ここで根本的な重要問題を考察しておきましょう。つまるところ「東西の大決戦となる戦争」の宣戦布告は、いつ、どの段階で?○たとえば「定説で言う家康弾

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