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日記一覧

○二月に入って、忠利の現況報告です。だいぶ長い手紙ですので、一文ごとに区切りながら、順に見ていくのがよさそうです。●忠利九一一「2月4日」前文〜第一文前文「伊豆殿へお見舞いとして、御使者を送られたことで、正月二十四日の御手紙を、二月一日に有

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○現地に到着した忠利の手紙。長いので三度に分けました。最後のところです。●忠利九一〇「1月29日」第十一文〜第十五文「一つ、松倉の居城へは番手として小笠原壱岐、二ノ丸へ久留島、天草の城へは松平主税、伊藤修理が派遣されました。過剰で理解しがたい

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○島原半島の南部、有馬の「原城」に立てこもる敵軍。幕府軍は城へ向けて「仕寄」をかけることにしました。現地に到着した忠利の手紙、前回の続きです。●忠利九一〇「1月29日」第五文〜第十文「一つ、前記のように、兵糧、弾薬、薪も尽きたのであれば、切っ

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○現代の長崎県、島原地方で起こった暴動。天草地方でも暴動が発生したため、当初は「掃討戦」のようなかたちで鎮圧が行われていた模様です。しかし、一揆衆は「原城」に集結して、立てこもることになりました。かつては「有馬家」の城で、この当時は廃棄され

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○東大史料編纂所の公刊翻刻本「大日本近世史料」の内『細川家史料』に、細川忠興、忠利父子による「島原戦争時の往復書簡」があります。「合戦の状況を書いた手紙史料など珍しくない」と思ったら大間違いです。なにしろ「まともに合戦経験のない息子」は、細

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○京都の忠興から返書が来たことで、返信を送ったのが二十七日。その翌日に、忠利は「新たな情報を得た」ので、またすぐに手紙を書きました。●忠利九〇三「11月28日」「島原、天草のこと、早くに終わるだろうとのことで、松平伊豆殿、戸田左門殿を、事後処理

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○幕府から「兵が足りないようならば、上使に加勢を願うように」と言われたことに対し、忠利は当初「当家に油断があるはずもないから、加勢は頼まなくていい」と判断していました。しかし「上様の強い御意向」とあって、加勢を「お受けした」ところ、京都の忠

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○江戸にいる忠利は、十日付、十二日付、十五日付で四通の手紙を忠興に送りました。その返事が京都の忠興から届いた模様。第一文から第四文までは「忠利が手紙で書いた内容」に対する「忠興の返答」に、いちいち忠利が「了解」と返事をしているもの。そして第

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