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日記一覧

○物語の中の「奇襲」を肯定する人たちにとって、大軍の動員には「なんの意味もない」ようなもの。だから「力の誇示」という解釈をするみたいですね。動員兵力が増えるほど「経済的な負担になる」という理解はない模様。この点を考慮すれば、戦国大名は「最低

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○若狭へ出陣したら、謀反は嘘でした。朝倉の「たくらみ」を知って、討とうとしたら、浅井に裏切られました。京都へ逃げ帰った信長は、岐阜に戻ると、次に北近江へ進攻します。そして「姉川合戦」です。このとき「朝倉景健の八千」が参陣しています。ちなみに

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○「金ヶ崎の退口」は、信長が「金ヶ崎にいたとき」に「浅井長政の裏切りを知った」というのが通説。しかし信長は、このとき金ヶ崎にはいませんでした。毛利へ送った手紙に「金前には番手入置」の記述です。これは「城を確保するために、番をする部隊を置いた

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○信長の「越前出兵」について、さまざまな史料の「記述内容」から組み立ててきました。その結果、かなり複雑な展開になりました。『信長公記』の著者「太田牛一」が、このときも従軍していたのなら、もっと正確な記録を残してくれたことでしょう。残念ながら

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○「越前出兵」の複雑な状況が、次第に明らかになってきましたね。「若狭で謀反」の報告を受けた信長は、将軍の「成敗命令」で出陣してきたのに、報告は嘘だったのです。朝倉義景が圧力をかけて、武藤友益に嘘の報告をさせたのです。信長は「朝倉討伐」を決意

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○「大敗」と「大勝」と真逆の記録を残す『言継卿記』と『信長公記』ですが、どちらの史料も「二十五日に信長が越前で合戦をした」という点では一致します。よって「二十五日に越前敦賀へ越境進攻した」ことを、ともかく「事実」だと仮定してみましょう。その

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○元亀に改元する直前、永禄十三年の四月二十日。京都にいた信長は、直接に京都から出陣しました。このときの「越前出兵」が、実は「信長に若狭へ出陣させて、そこから越前へ進攻させる」という「朝倉義景の計略」だったことが「解読できた」わけです。すなわ

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