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2015年12月19日00:39

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関ヶ原史料「井伊が前線へ」開戦前五六号

○関西軍が伏見城を落として、家康への敵対を宣言したころ、関東にいた豊臣軍団は東海道を西進していて、福島正則の居城である清洲城へ向かっていました。このころの東海道は、きちんと整備されていませんし、大井川や天竜川など、渡るのに苦労する川がいくつかありますので、おそらくはまだ行軍の途中だったろうと思われる八月四日の日付で、家康が福島正則に宛てた手紙があります。

●手紙五六号「強く伝えます。それは、このたび先発として、井伊兵部少輔を派遣しますので、手段などのこと、私が出馬してくる以前は、なんであっても彼の指図に従い、話し合われていただくのが、私としては本望となります。なお、井伊兵部少輔が伝えるでしょう」

○家康はまだ動いていません。いつ江戸に戻ったのか、正確なところがわかる手紙史料もないので、栃木にいるのか江戸にいるのか、それも明確ではないのです。定説では、八月四日だと、すでに江戸へ戻っていることになっていますけどね。ともかく家康は、自分の出陣の前に井伊直政を差し向けて、前線の豊臣軍団をサポートすることにしたようです。ところが八月八日付で、事情が変わったことを報せています。書いたのは家康の側近、本多正純で、宛名は黒田長政です。

●手紙六二号「御使者、および、お手紙の内容、ていねいに申し聞かせました。すべて理解を致しましたので、御使者をお返し致します。そういうことなので、こちらで内府が出馬すること、少しも油断をしておられませんので、ご心配のないものと思っていてください。この先のこと、うまくいきますようにご相談、これが大事だと思っています。井伊兵部は体調が悪いので、本中務を清洲まで進ませておくことになりました。よくよくお話し合いになられますように」

○前線に行くはずだった井伊直政が体調を崩したため、「代わって本多忠勝を向かわせますから」という内容です。実際には井伊直政も関ヶ原決戦に参加していますので、本当に病気になったのか、ちょっとわからないところ。ただし、この手紙は本物だと思われるのです。冒頭にある「御使者、および、お手紙の内容」がポイントですね。このころ黒田長政が、前線から徳川に手紙を送っていたことは、「家康の返事の手紙がある」ことで、事実だと言えるわけです。それは次回に書くとして、ともあれ「井伊が体調を崩した」というのは信じてもいい感じです。そのせいで本多忠勝を行かせることになったのだし、体調が戻った井伊も約束どおりに行ったことで、前線には井伊と本多、いわゆる「徳川四天王」の二人が「たまたま」揃うことになったのでしょうね。もしも井伊が体調を崩さず、最初の予定どおりに清洲へ行っていたら、本多が派遣されることはなかったかもしれません。そうなっていたら、関ヶ原決戦にいた徳川軍は、家康の旗本衆と井伊ぐらいで、あとは「ほとんど全部が豊臣軍団だ」となっていたかもしれません。そのくらいに偏っていたら、もっと早くに誰かが疑問を抱いていたのかもしれませんね。「これは本当に、家康の天下取りの戦いなのか?」と。
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