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日記一覧

○上洛しない上杉景勝。家康は使者を詰問に行かせたが、上杉が突っぱねたので、激怒した家康は上杉討伐を決行した、というのが定説でしょうかね。「一九号」島津の手紙では「使者は三月十日に出発して、四月二十七日に報告」となっていました。ちょうどそのこ

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○まずは家康の書いた手紙です。六月二日付で、家臣の本多康重に宛てたもの。●手紙二二号「強く申し伝える。七月下旬に、奥州方面に出陣することになったので、油断なく用意をしっかりとせよ。出陣日については、京都から仰せがあるだろうから、またあとで連

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○この手紙史料は宛名が切れていますが、徳川家の誰かに送ったものではあるでしょう。書いたのは、長束、増田、中村、生駒、堀尾の五人連名。いわゆる五奉行の長束正家、増田長盛の二人に、豊臣の重臣たちが加わって、五月七日付です。●手紙二一号「今は秀頼

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○二つの手紙を比較します。どちらも家康の書いた手紙で、「上杉討伐」の関連です。「手紙二〇号」は五月三日付で、栃木の伊王野資信に宛てたもの。北部の那須地方、黒磯の近くに城を構える小豪族ですが、奥州街道の鍋掛と芦野の中間に位置しているため、その

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○福島県の会津地方を領有していた上杉景勝を、「討伐する」と言って徳川家康が出陣。ここから「関ヶ原決戦に至る東西戦争」が始まります。『日本戦史関原役』の収録史料では、「上杉討伐」に触れた最初が、薩摩の島津惟新義弘の手紙です。大坂から、兄の龍伯

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○以下の二つの手紙史料は、どちらも徳川家康が書いたもの。日付も同じで九月一日、関ヶ原決戦の半月前です。少し意味を整えて、現代語にしてみましょう。●手紙A「わざわざ加藤源太郎を行かせて伝えます。今日一日には神奈川に到着していて、すでに江戸を出

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