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2015年12月07日16:10

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関ヶ原史料「家康弾劾状」伏見落城五三号

○定説解釈では「最初から徳川と戦う全面戦争」です。その根拠となっている手紙史料がありまして、「内府違いの条々」と呼ばれています。家康の批判を十三条にわたって書いたもので、七月十七日付。つまり、三奉行と石田三成が連名で書いた「手紙三三号」細川成敗の命令書と、同じ日に書かれたことになっているのです。これが本物ならば、この時点で「徳川との全面戦争」を宣言していることになりますから、今までこうして書いてきた内容が崩壊するわけですね。しかし「内府違いの条々」は偽書なんです。『日本戦史関原役』に収録されてもいないし、偽書でしかない史料についてまで書いているとキリがないので、簡単に触れておきます。たとえば「内府違いの条々」には、「五大老の合議で決めることを家康が独断で決めた」という条文があるのですが、だったら上杉景勝は、呼ばれたらすぐに上洛しないと、合議もできないってことじゃないですか。このほかの条文も同様で、大坂側は「自分たちのしていることを棚にあげて、難癖をつけているだけ」でしかないような内容だらけです。一読でわかる偽書ですよ?

○実際の手紙史料を正確に見ていきますと、定説解釈では無視されてきた「細部の記述」があって、「手の込んだ石田三成の計画」が見えてきました。石田の思惑どおり、事態は着実に進行している感じです。八月五日付「五二号の二番」では、輝元と秀家が連名で「家康と戦争することになった」と宣言するに至っています。実は、その前にも「家康の弾劾状」とも言うべき手紙が書かれているのです。日付は八月二日で、伏見城が落ちた直後です。つまり「伏見城を攻め落とした以上は、徳川との戦争を覚悟しなければならない」ってことなんです。書いたのは輝元と秀家、そして三奉行と、さらに石田も入った六人連名。宛名は真田伊豆守。長野の真田昌幸の長男で、群馬県の沼田を領有し、妻は家康の養女です。

●手紙五三号「強く申し伝えます。太閤様が御不慮になって以来、内府は御定めに背き、上巻の誓詞に違反して、好き勝手な政治をしてきたのは、許されないことです。特にこのたび景勝を倒そうとしたこと、理由もないことなので、いろいろ理解を求めたのですが、受け入れずに出発しました。こんなありさまでは、秀頼様を御取立てになる行動ではないので、われわれが相談し、御定めを守り、秀頼様に御馳走するため、上方の者たちは一致団結し、統治をなし、関東へ行っている者たちも妻子を人質に大坂へ置いてある以上は、異議もないことだろうと思います。もちろん上方の、在京している者、在国している者は同様で、秀頼様に御忠節申しあげることは絶対の覚悟です。それについて、伏見城に在番する関東者が、千ばかりおりましたが、即時に各方向から乗り込んで崩し、大将の鳥居彦右衛門をはじめとして、一人も残らず討ち果たしました。これぞ天罰と申すものです。次に丹後のことですが、羽柴越中は兄弟が多くいる中で、一人も秀頼様へ御忠節をなすことなく、全部を連れて関東へ行ってしまい、そのうえ御忠節もないのに新規の領地をもらうとは、不届きなので、兵団を派遣し、城をどれも接収し、田辺城は町も二ノ丸も焼き崩して押し詰めて、仕寄で堀ぎわまで攻め詰めています。落城も時間の問題でしょう。そちら方面のことは、堅固に支配を固められて、秀頼様への御忠節はこのときです。そういうことなので、各自でよく相談し、外聞のよいように話し合うべきです」

○この手紙のポイントは三つあります。一つめは「家康が好き勝手な政治をしている」の文章。原文では「恣之働」で、この意味は、あとの文章「これでは秀頼様を御取立てになる行動ではない」の意味ですね。幼君の全権代行である家康は、あくまで秀頼の代行で政治をするのであって、徳川に都合のいい政治をしてはならないわけですよ。しかし輝元たちは「家康が私欲で政治をしている」と批判しているのです。五大老で合議をしてないとか、秀頼の許可を取ってないとか、そういう意味ではありません。それから、批判の理由として、「理由もないのに景勝を倒そうとした」と書いているのが二つめです。原文では「景勝可被相果段不謂儀に候」です。ここには「あい果たす」の言葉があり、少なくとも「上杉家の領地を没取する処分」という意味になっています。威嚇だけでは済まないことになりますが、かと言って「討ち果たす」でもないわけです。ここの理解は微妙ですよね。そして三つめは、丹後の田辺城に関する記述で、「仕寄で堀ぎわまで攻め詰めている」です。原文では「仕寄にて堀際迄責詰候」で、原文にもある「仕寄」の言葉は、籠城軍が鉄砲や弓矢で防戦射撃をしてくるのを、防壁を組む土木工事で防ぎながら、次第に距離を詰めて城に接近し、最終的には城へ乗り込む手段です。伏見城攻撃にはなかった言葉ですね。つまり伏見城は「仕寄もなしに一気に乗り込めるくらい、籠城軍が少なかった」ということで、だとすれば「焼き討ちする」必要もないはずなんですよね。もしも本当に「このとき焼かれた」のなら、「御座所を荒らした」と難癖をつけた石田三成が「証拠隠滅で焼き払った」可能性さえあるんです。一方で田辺城は、二ノ丸まで焼かれて、本丸には仕寄が命じられて、まさしく「攻城戦」が始まっていることになります。ということは、敵の救援軍が出てくる前に城を攻め落とす意思が、大坂側にはあるってことなんですが、なぜか田辺城は一ヵ月も持ちこたえて、最終的には降参退去で終わっているわけなんです。そこの「謎」については次回に書きましょう。なお、この手紙には「細川成敗」の理由が明確に書いてありますよね。「誰も秀頼様にお仕えしないで、みんな関東へ行っちゃって、領地をくれた家康に仕えているのかよ」と。
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