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日記一覧

○八月に入ると伏見城が落ちます。当初は「島津家が大人数を率いて仰々しく留守番を務める」という「手紙一九号」の話もあったようですが、結果的には、わずかな留守番が残るのみでした。「決起した西軍は最初、徳川の留守番役に伏見城の明け渡しを求めた」と

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○細川忠興が書いた手紙です。出典は『細川家史料』なので、原本から翻刻されたものであり、間違いなく本物の手紙です。宛名は息子のミツで、八月一日付。●細川忠興の手紙二号「備中をこちらへ呼び、道具なども渡し、こちらのようすなども話したのだが、書い

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○いよいよ関西軍の手紙も八月に入ります。五大老メンバーの宇喜多秀家と毛利輝元が連名で、鹿児島の島津家久に宛てたもの。大坂に来ている惟新義弘の息子で、島津家の当主であり、このころは忠恒という名前でした。八月一日付。●手紙四九号「一筆申しあげま

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○今度は大坂の手紙です。七月二十九日付。三奉行の長束正家、増田長盛、前田玄以に毛利輝元が加わった四人の連名。宛名は佐波広忠です。もう一つ、輝元が単独で書いたもので、佐波広忠、村上元吉、村上景親に宛てた「定め書き」も。●手紙四四号の一番「阿波

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○家康は七月二十九日の段階で、大坂の奉行衆も敵対したことを把握したようです。それは当然「細川成敗」が発令されて、京都府綾部の別所吉治、京都府福知山の小野木公郷ら、丹波の大名衆に出陣命令が出たことに由来するはずです。奉行衆が「この命令」をどの

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○大坂では七月二十三日に伏見城への出陣命令が出たようで、事態が進行しています。しかし関東では、二十七日の段階でも「石田と大谷の謀反が確定したので成敗する」という認識を示しているだけでした。ところが、ついに重要な情報がもたらされたようです。手

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○ここで上杉のことを整理しておきましょう。石田三成と直江兼続が事前に共謀し、「直江が徳川を関西から引き離す。その隙に石田が挙兵する」という定説解釈。その根拠となっている手紙史料は、石田が直江に宛てた「二四号」と「三〇号」の二つです。このうち

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○時間が跳んでしまいますが、先に八月一日の手紙を見ていきます。九州の大分県、中津城にいる黒田如水が書いた手紙です。宛名は吉川広家です。●手紙五一号の一番「天下のことは輝元様が御指図なさいますようにと、奉行衆の申し出により、大坂城へ御移りにな

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○この手紙は、定説解釈において、無視されているものです。内容も定説の理解にまったく合わないし、何よりも、書いた人物がおかしいってわけですね。大坂三奉行の長束正家、増田長盛、前田玄以に、石田三成が加わった四人の連名。しかし三成は、まだこのころ

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○時間が前後しますけど、七月十四日の手紙に戻りましょう。書いたのは石田三成で、宛名は上杉家の直江兼続です。「二四号」の嘘くさい手紙に同じく、江戸時代の読み物『続武者物語』から採録されたもの。ゆえに嘘くさいシロモノです。●手紙三〇号「六月二十

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