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日記一覧

○「ゲーム理論」というのがあります。一種の「論理的思考実験」の手法で、十年以上前に流行しました。文系でも経済学や心理学が採り入れていましたけど、今はどうなんでしょうか。大学の非常勤講師をやめてから、教育事情にはうといんです。ちなみに文学では

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○合戦展開の創作作業は終了です。私にとっては「吉川広家が中仙道をあけていた」状況について、矛盾のない展開が「見えた」段階で、全部の答えが出ていたようなものです。あとは確認のため、細部を詰めてみた次第。わずかな史料の記述内容とも一致しました。

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○すべての条件が確定しました。まだ「仮定の要素」も残っていますが、最終決戦の廟算を可能とするだけの「基本データ」は調いました。根拠史料は二通です。●一〇九号9月15日「差出」徳川家康「宛」伊達政宗●細川家史料9月22日「差出」細川忠興「宛」細川

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○前回に触れた「濃霧」について、先に片づけておきましょう。決戦当日の十五日は、夜明けすぎまで「関ヶ原は濃霧だった」という説ですが、私の作ってきた展開には関係ありません。その時分なら、まだ関東側も「長良川か、揖斐川を渡っている頃合い」ですから

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○ついにクライマックスですね。決戦当日の九月十五日、関東側が関ヶ原へ進出した際の状況です。十四日に交わした誓詞によって、寝返ることになっていた小早川秀秋。ところが翌日、関東側が関ヶ原へ出てみると、小早川軍は「大坂側の一員」のように、ちゃっか

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○関ヶ原合戦の「定着している展開」は、「徳川家康が十四日に赤坂へ着陣。夜半に関ヶ原への移動を開始して、十五日の早暁から戦闘の開始」というものですね。しかし前回に「家康の赤坂着陣は十五日」としました。夜明け前には岐阜城を出発し、ちょうど夜明け

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○関ヶ原合戦の「定着している展開」は、「関ヶ原で西軍と東軍が戦闘衝突し、西軍側の小早川秀秋が東軍側へ寝返ったので、東軍が勝利した」というもの。しかし「事の順序」は逆だったのです。秀秋が東軍(関東側)へ寝返ったのは、決戦の前日「十四日」のこと

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○「本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦」として解析したデータで、確定しうる「変えられない設定」はわずかです。しかも大坂側の史料はないので、関東側の行動展開を「先に固定する」しかありません。十二日は清洲城にいた徳川家康が、十三日に岐阜城へ

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