mixiユーザー(id:63255256)

2015年12月28日01:43

377 view

関ヶ原史料「前線へ質問状」開戦前六五号

○以下の三つも家康の書いた手紙です。まずは八月十三日付、浅野幸長宛て。

●手紙六五号「そちらの状況を教えていただきたかったので、村越茂助を行かせました。お話し合いをなさって、お伝えくださいますように。出馬のことに油断はありません。ご安心ください。詳細は口頭で述べます」

○次も八月十三日付で、宛名は前田利長です。

●手紙六六号「そちら方面ではご活躍だと伺いました。めでたく思います。いっそうそちらの御陣のようすを伺いたくなって、使者を行かせました。こちらのことは、各人が話し合ったうえで、美濃方面へ出るものと思います。言うまでもないことですが、とにもかくにも危険のないように指揮をなさること、大事です。なお、使者が口頭で述べるでしょう」

○浅野幸長は清洲にいるようです。秀吉の義妹の息子ですから、もちろん豊臣軍団です。問い合わせの使者として派遣された村越直吉は、こののち「清洲からの手紙を持って帰ってくる使者」として手紙に名前が出ますので、実際に行っていると思われます。よって本物と見ていい手紙です。一方、前田利長に送ったほうは微妙です。北陸では、すでに戦争が始まっていて、それを報告してきたようですが、それにしては、手紙の中に「内容を書かなさすぎる」ように感じます。ただ、文中の「危険のないように」という言葉が気になりますね。原文では「無聊示様に」で、直訳すれば「軽はずみなことをしないように」となるのですが、その意味で文意が通じる手紙は偽書っぽいものが多いのです。本物っぽい場合は、もっと強いニュアンスで「危険なことをするな」の文意になるんですよね。なにせ後世の人たちは、「合戦なんだから危険は当然だ」と思っていますから、偽書では「危険」のニュアンスになりません。この手紙は内容が少ないせいで、かえって「危険」で通じる感じがしてしまいます。そのほか疑問を感じる点が多々あって、真偽の判断は難しいのですが、これが偽書なのか、本物なのかによって、大きく左右されてしまうのが「美濃方面へ出ると思う」の理解です。結果的に清洲の豊臣軍団は、伊勢方面ではなく美濃方面から戦争を始めたわけですが、それを十三日の段階で家康が本当に書いているのなら、「家康は、この時点で戦略展開を組み立てていて、先に行かせた本多忠勝や、改めて行かせる村越直吉を通して、前線の豊臣軍団に指示を送っている」ことになるわけですよ。それは「ありえないことではない」のです が、反面では、「美濃から攻めた」という「歴史的結果を知っている後世人が書いた偽書」にも思えてしまうのです。難しいです。

●手紙六九号「そちらのようす、詳細な手紙を読みました。特に、あなたの居城は工事も完了し、人質も出していないとのことで、いっそう喜ばしいことです。ますます防備に油断のないこと、大事です。次に、遠藤左馬助のことを言ってきましたが、忠節は浅くなく、こちらでも金森法印がそのように言っております。それから、土岐郡のこと、できる範囲で考えることが重要です。私も近日に出馬しますので、安心していてください。なお、永井右近大夫が伝えるでしょう」

○こちらは八月十五日付で、妻木貞徳宛てに書いたもの。東美濃の小勢力である妻木氏は、江戸時代にも旗本として残っていますので、東軍の側に付いた者ではあるでしょう。残念ながら、手持ちの史料では詳細がわからない人物です。気になるのは、「土岐郡のこと、できる範囲で考えることが重要」の文章です。原文では「土岐郡之儀成次第才覚肝要候」となります。これは「できるなら、土岐郡を取っちゃってください」の意味で解釈されていて、確かに、偽書と見られる手紙では、「成次第」は「手に入れ次第」の文意で使われている言葉です。たとえば「六三号、加藤清正に領地をあげる」の手紙でも、「成次第可被申付」と書いてあって、「自分で手に入れ次第、支配していいよ」の意味に読めるんです。しかしこの手紙だと「その意味」では通じない感じなんですよね。「成次第」は「なる範囲で」に思えるし、「才覚」も本来の意味「自分でよく考える」があてはまりそうで、そうすると、「あなたのこと、遠藤のこと、だけでなく、できれば土岐郡の全体を、しっかり味方にしてほしいのだが」という意味合いになるんです。そう読んで間違いがないなら、これは本物だと言えるでしょう。もう一つ付け加えると、六六号が十三日付、六九号が十五日付、この順序がもしも逆で、東美濃の情報を知ってからの「美濃方面へ出ると思う」なら、家康が「戦略展開を決めていた可能性」を言えるのです。最終的に関ヶ原が決戦地になったので「最初から関ヶ原での決戦を想定していた」と解釈する人がいますけど、開戦の前段階での勢力図を見る限り、決戦の地は長良川が最適なんです。周辺で、誰が味方で誰が敵対しているのか、家康が情勢を把握していたのなら、「美濃へ出るのが攻め口だ」と家康が考えても当然なのですが、でも、情報があとなんですよね…。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する