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2021年12月25日01:54

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水俣病の思想:不知火海と紀伊水道

緒方正人『チッソは私であった 水俣病の思想』(河出文庫)を読んだ。すごい本だと思う。いや著者は「凄い人」だと思う。僕は今年ジョニー・デップ製作・主演の映画『MINAMATA』は観たが、かの石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』はいまだに積読である。だから緒方氏の本が、石牟礼氏の盟友である思想史家・渡辺京二氏の編集で2001年に出ていたことは知らなかった。

緒方氏は1953年、水俣市の北隣の芦北町女島(めしま)に、網元の18人きょうだいの末子として生まれたが、幼くして父は水俣病で「狂い死ぬ」(著者の表現による)。中学を出て家出し、熊本市で右翼(著者の表現によるが、イメージはヤクザに近い)の世話になったが、実家に戻って漁師となる。近親者や自身も含む大人や子どもが発症したり、猫が狂い死んだり、魚が異常行動をしたり奇形化するのを見ているうち、自ら水俣病闘争に加わり闘士となるが、12年後に離脱した。

水俣病公害の原因とされる有機水銀を含む工場廃液を排出し続ける企業チッソにその責任を認めさせ、被害者への補償を勝ち取る。その目的を達成するために、チッソという企業の役員や社長、県などの自治体、国の責任を追及し、裁判で判決を勝ち取り、最終的に謝罪と、補償金なり何らかの解決金というカネを受け取る。どんな努力も苦労も熱い思いも、「結局はカネにしかならない」こと。また、企業も自治体も政府も裁判所さえも常に担当者が交代する。そこには生きた生身の個人としての「人間」は現れず、そのプロセス全体を支える「システム」のみが存在している。緒方氏は、そのことを大きな壁と受け取ったのだ。

――ただこれは、水俣病という公害事件の特殊性によるものではなく、高度成長後の全ての現代人を覆っている現実だろう。例えば僕自身は四国東岸、徳島の港町の商店街で育ったが、うちも含め近所の家は乳母車ほどの木製の手押し車を押してくるおばさんから、その日獲れた魚を買って食べていた。緒方さんなら、毎日自分(たち)で獲った魚を食べていた。そして恐らく今は、ほとんどの現代人がスーパーでパックに入った切り身を買っているか、調理済みの食材を買うなどしている。
 また現在は農家の台所も、大なり小なりステンレスや合成樹脂が使われたシステムキッチン化していると思うが、高度成長以前は土釜があって、この土釜は古墳時代から二千年近くほとんど変わらなかったという。

緒方氏の生家は波の音の違いが聞き分けられるほど海に近く、学校へ行く道も途中まで40cmほどしか幅がない、人一人がやっと通れるような道だったという。僕の家の前は舗装された国道だったから、同年生まれでも育った環境はかなり異なる。それだけより自然に近い、自分も含めほとんどの現代人が切り離されてしまった昔ながらの人の暮らしの在り方を思い知らせてくれる。

ちなみに、緒方氏は、東京での水俣病関連の集会に出席する際、内海漁業用の昔ながらの木造の帆船で不知火海から東京湾まで航海を行った。関門海峡、瀬戸内海、鳴門海峡、紀伊水道、太平洋という経路で。その時の思い出として、「紀伊水道が美しかった」と回想していることに愛郷心をくすぐられた。

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