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2021年12月18日15:49

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天正遣欧少年使節4

改めて少年使節の4人をWikipediaから引くと、
・伊東マンショ(主席正使): 大友義鎮(宗麟)の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
・千々石ミゲル(正使):大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後に棄教。
・中浦ジュリアン(副使):後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴吊るしの刑によって殉教。2007年に福者に列せられる。
・原マルチノ(副使): 後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。
――と四者それぞれである。

『クアトロ・ラガッツィ』著者の若桑みどり氏によると、原マルチノ(マルティーノ)は最も語学の才に恵まれ、ラテン語のスピーチや翻訳、印刷技術の知識を後にマカオで生かした。宣教師追放令の後にマカオに渡ったのは、こうした才気と技能から日本人キリシタンの中で目立った存在となり、日本に潜伏するのに困難を感じていた可能性がある。
 主席正使だった伊東マンショは4人の中で最も早く42歳か43歳で病没したが、徳川幕府による1614年の「伴天連追放令」が出る前だったのは幸いかもしれない。
 棄教した千々石ミゲルと、殉教者となった中浦ジュリアンは対照的である。ちなみにジュリアンが死亡、殉教した穴吊りの刑という拷問を兼ねた刑罰に、イタリア人司祭のフェレイラが5時間で棄教してしまったことはイエズス会に衝撃を与えた。
 また彼らとともに天草のコレジオで学んだ日本人のファビアン(不干斎ファビアン)は、キリシタン最高のイデオローグから自ら棄教して、徳川幕府のキリシタン弾圧政策のブレーンという最大の背教者となった。
――まさに人それぞれだが、こうした島原の乱に至る日本の対キリスト教政策は、ローマ帝国での初期キリスト教時代以来のキリスト教への弾圧だった。
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