mixiユーザー(id:7131895)

2021年12月18日12:18

82 view

天正遣欧少年使節3

Wikipediaによると、
「天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。」

――このあたりが教科書的なおさらいだが、その8年余に及んだ旅の途中にも、そして帰国後の日本でも大小さまざまな事件があった。そもそも発案者のヴァリニャーノがこの使節派遣を発案したのは、スペイン人やポルトガル人の宣教師らにはヨーロッパ中心主義と覇権主義が抜きがたかったのに対し、中国や日本にもヨーロッパとは異質だが高度の文化・文明があることを認めた上で、その東の果ての国からキリスト教に改宗した王たち(キリシタン大名)の近親者をキリスト教世界の中心であり、自らの出身母体であるローマのヴァティカンに派遣することで、キリストの教えの世界の果てへの浸透という布教の努力の成果を認めてもらい、一層の布教支援を得た上で、まだ若い少年たちにその目でローマとヴァティカンを見させ、本場と同等の司祭にまで教育し、さらに日本での布教に努めさせようとしたためだった。

選ばれた4人の少年のほか、ヴァリニャーノ自身をはじめ日本語とラテン語などの教育係の司祭や世話役が随行した。功成り名遂げた武士などでなく彼らが使節になったのは、使節の格や威厳よりも将来の布教を考慮したこと、航路の危険性を考慮して大名の嗣子は避けざるを得ず、キリシタン大名の近親や重臣の子弟のうち幼少期に洗礼を受けて修学中の少年だった。ただインドのゴアに着いた時、このミッションの中心人物だったヴァリニャーノが本部からの命令で昇進して船から降りざるを得なくなってしまう。

ヴァリニャーノという主を失ったことは、ついにヨーロッパに到着した使節一行が、つつましくしておきたかった彼の意図以上にもてはやされ、そのローマでは王侯貴族並みに待遇され、晴れのパレードで最も目立つ席に座らされるまでになる。東洋の果てからの少年使節は、教皇や枢機卿、各地の王侯貴族にとって、自らの威光や権威を見せびらかす格好の手段にされてしまう。

少年たちがこうした経験を当時どう思ったかは不明だが、後年の彼らにとっては「わが生涯最良の日々」となった。だが、幸運にも全員無事に帰国した彼らを待ち受けていたのは、織田信長亡き後に天下を取った豊臣秀吉が伴天連追放令を出した日本だった。


3 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年12月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 

最近の日記