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2017年02月04日21:40

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『南海一見』

この偶然、滅多に行かない古本屋で買った、紙が茶色くなった文庫本。1世紀前に京都帝大文学部教授だった原勝郎という人物が書いた東南アジア旅行記。最後の方と解説を読むうち、ようやく面白さがわかった。

旅行は1913年から14年にかけて。14年夏には第1次世界大戦が勃発。日本は南洋群島を占領した。ヨーロッパ諸国が太平洋の島々にまで手が回らなくなった隙を狙って。この旅行は、そうした日本の政府や軍の意向を受けていたか否かは不明だが。ただ、解説でも「歴史的変換の直前」になされたと指摘されている。

訪れた国が、仏領インドシナ、シャム(タイ)、英領マレー、蘭領東インド(インドネシア)、フィリピンで、当時「外南洋」と呼ばれていた地域。アジア大陸の東南端と近くの島々=東南アジアの方が「外」とは、現代の感覚とは逆だろう。

解説によれば、著者が旅行に出かけた1913年という年は、「南進か北進か」が論壇をにぎわせていた年という。

この頃書かれた南洋旅行記は、総じて卑俗に流れた怪しげなもの、南洋を「自由とも放縦ともつかぬ無頼の世界」と描きたがる傾向が支配していたという。

その中で京都帝大の史学科主任教授が書いたこの旅行記は、「日本社会の正統的ななにものかの南洋論への乱入」だったと。

著者は今でこそ歴史の中に埋もれているが、京大西洋史の創設期を担った人。当時の同僚だった内藤湖南や西田幾多郎、上田敏、朝永三十郎、小川琢治、新村出、和辻哲郎など現在まで名を残す錚々たる顔ぶれに比べて地味に見えるが、そうではないらしい。当時の京都帝大が漢学=中国と西洋哲学を売りにしていたことによるところが大らしい。原は文学部長在任中の大正13年に病死。

原は東京帝大を卒業後、軍役に就き、陸軍中尉として日露戦争に従軍している。

原のこの旅の目的は、ジャワとフィリピン、特にアメリカがフィリピンをどう経営しているかの視察だった。またオランダの植民地支配の実態を見たかったろうという。

解説が指摘するように、著者の「土着の文化や人々に対する評価は一方的」であり、現地人に対して「土人」のオンパレードなのもその端的な表れだが、それは100年前の日本人そのものの限界だった。福沢諭吉以来、文明開化に遅れた国や民族を下等と見なすのが当たり前だった。

この旅行記は、そうした日本人のものの見方そのものの地金を露呈しつつ、日本人の「南洋」への関心ないし南進論を、当時流行りの無頼の世界への関心としてでなく、いわば「正統的」な植民地支配への関心として先取りしている。
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