黒澤明監督の作品。
ドストエフスキーの「白痴」の映画化作品だ。
冒頭、主人公に椅子を譲る様にした親切な人が、口が悪いので何の気無しに「バカ」と言ってしまい、主人公が傷付く場面が有る。
俺もTwitterなんかをボーッと見ていてたまに「頭がおかしい」とか「キチガイ」とかツイートしているのを目にすると、俺の事を指している訳では無いのは分かってはいても、そういう言葉を使うのは精神を患っている人に対して失礼だろうと、傷付けられた様な気になる事が有る。
「自分じゃ気がつかないけど、どこか変らしいんです。」
俺も昔は良く「何処か分からないけど、良い意味で人と違う」と言われたものだ。
俺も脳の病気だ。
数ヶ月前に気付いたんだが、俺の病気は思考が言語になる前の無意識の領域にも作用している様だ。
例えば、マクドナルドでポテトを食べるかナゲットを食べるかで一瞬だけ迷い、ポテトを頼んだとする。
しかし、そのポテトを選択した事そのものが、自発的な欲求の発露では無く、何者かに寄る思考の操作だとしたらどうだろうか?
その領域に於いて今の薬では効果が無い、というか、今出回っている他の薬も効果が無いと思われる。
この領域は「ビューティフル・マインド」でも描かれ無かった領域だ。
その領域を意識する様になった今なら分かる。
恐らく、不可知論や形而上の世界は存在する。
ニーチェが言った「深淵」は恐らくこの事だ。
何等かの第三者に寄る思考への介入を含めて、その正体がテレパシーを持った人間に寄るものか、宇宙人に寄るものか、はたまた幽霊や精霊や悪魔、天使や神に寄るものか、それがまだ分からないので、取り敢えず俺は、この思考への介入を含めて「病気」と呼ぶことにしているが、一つの疑問が発生する。
それは、この思考への介入を受けているのは俺だけなのだろうか?という事だ。
普通の人間が其処迄深く自分自身の内面と向き合う機会はそう無いだろう。
とすると、もし俺以外の人間にも思考の介入が起きていると考えた場合、無意識下の思考の介入に気付かず、自発的な思考だと思い違いをしているのが健常者では無いだろうか?
悪い女に引っ掛かるとろくな事は無い、という事だな。
女の取り合いはそれこそろくでも無い。
今の俺は諦め癖が付いているから多分こういう状況になったら譲ってしまう様な気がする。
「だって、人間の知恵には大切なのと大切でないのと二とおりあるでしょう」
俺もそう思う。
そして「大切」な方は間違えていない自信が有る。
以前は意識していなかったが、結婚というのは二人だけの話では無くて家族付き合いの話でも有る。
どうしても相手の家族と相性が悪くて合わせられず、お互いに別れたく無い時にするのが駈け落ちなのだと最近になってその意味を噛み締めている。
二兎追う者一兎も獲ず、か。
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