mixiユーザー(id:20797417)

2024年06月15日12:51

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処女の泉

スウェーデン映画。
イングマール・ベルイマン監督の作品。

レイプ殺人にあった娘の復讐に燃える父親の話だ。

蝋燭のロウを自分の手首にかけるのは熱かったと思う。
俺も昔、指に得体の知れない皮膚病が発生した時にライターの直火で指を炙った体験が有るので良く分かる。

何て勿体無い事をするんだろう。
パンに蛙なんか入れたら、もう食べられ無いじゃないか!

「悪魔は無垢な魂を誘惑し、すべての善きものをおとしめるからよ」
悪魔かどうかは知らないが、この世界には確かに邪悪な何かは存在する。
それは人の意識の中に入って来て、悪の道に誘惑する何かだ。
この表現が正しいかどうかは分からない。
だが、それは何時も左側から感じる。
それが俺に罪を犯させようと唆すのを感じる。

教会に行くのは初めてでは無いだろうに。
この娘は、教会に行く道中に住んでいる人の事さえ知らないのか、と。
観察力が足らないと思う。

単純な復讐劇では無かった。
北欧神話の神とキリスト教世界の神とを信仰している人が入り交じって、各々の信仰を守っている。
北欧神話を信仰する人達はオーディンに祈りを捧げているが、これが娘の死を暗示させている訳だ。
そして、最後の場面で泉が湧き出す訳だが、それが謂わばキリスト教世界の神の奇跡、赦しや和解として描かれている。
只、(これはこの頃の映画の限界かも知れないが)キリストは「神を試すな」と言われた。
だから、奇跡の有無で神を判断するのは間違い、という事になる。
重要なのは、恐らく「信じているかどうか」という事だろう。
俺は結局の所、信仰は人権だと考えている。
Aという人がBという神を信じていて、Cという人がDという神を信じていたとする。
各々が同じだけ強く信じているとすれば、神の優劣はつけられ無い(但し、新興宗教はこの限りでは無い(何故なら、宗教とは何百年、何千年の月日を掛けて完成されて行くものだからだ。))。
そうすると、殺し合う以外には無い訳だが、神は人間の殺し合いを好まれ無い。
もし、人間の殺し合いによる生け贄を好む存在が有るとすれば、それは神では無い。
例えば、悪霊で有るだとか、悪魔で有るだとか、その様な神以外の何かだ。
それを神だと思っている人が有るとするならば、それはその人間の認識能力の限界を現しているに過ぎない。
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