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2023年03月12日05:30

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「伏流水」としての青年将校運動

(タイトルを「昭和維新運動」から変えたが、ほぼ同じである。ただ「昭和維新」という場合には、軍人でない民間人も含む。末松太平『私の昭和史』には「陸海民」という言葉が出てくる。226事件で処刑された西田税はつとに陸軍を免官されて民間人だったし、西田らが崇敬した北一輝も陸軍に処刑されたが、軍にいたことは一度もない。)

「青年将校運動」ないし「昭和維新運動」という場合、軍や政党のような明確な組織はなく、友人知人・先輩後輩・上官部下などの「人間関係」が全てである。吉松氏、ということは後の青年将校運動全体に、「革新思想」(といっても右翼的な)を吹き込んだのが、吉松氏が士官候補生として赴任した青森の第5連隊で先輩将校だった大岸頼好。時は宇垣軍縮の大正14(1925)年のことである。普段は所属する連隊のある青森にいても、満州など大陸に所属部隊ごと派遣されたり、東京・千葉など各地で研修や会合に参加すると新たに知己を得たり、旧交を温めたりして、同志を増やしていくことで、軍内外の革新思想・運動が全国に広まっていくわけである。

吉松氏は北九州・小倉の出身で、広島の幼年学校卒。大岸は(改めて確認していないが)和歌山出身で、同じ広島幼年学校で西田税の一期後輩。吉松氏は軍に縁故などは一切なく、なぜ最初の赴任地が青森の第5連隊になったかは知る由もなかったが、青森の本州最北端という地理的位置や、寒冷な気候風土と厳しく貧しい農業・経済環境、世界的不況、そしてその地での人との出会いが、思想形成と生き方に大きく影響することになる。

革新思想・運動を深めようと、自らの本拠である東北の青森ならではの立場を掘り下げようとして、当時の農村の現実を学び、農民たちを啓蒙し、知見と世界観を共有しようともする。しかし、そうすればそうするほど、右翼革新運動のはずが左翼と変わらなくなることに悩んでいた時、先輩に注意され、憲兵や警察にもマークされて、断念。思想的深化は中断する。

革新思想・運動に、年齢や階級などの上下は一切関係なかった。1935年に当時の陸軍で最高の頭脳とも目された執務中の軍務局長・永田鉄山少将を刺殺して全陸軍を震撼させた相沢三郎中佐は40代だったが、10歳ほど年下で階級も下の大岸を思想的師匠と仰ぎ、敬語を使っていた。

相沢の人となりと真情を知る吉松氏らがその減刑嘆願の働きかけに出ようとした矢先に、226事件が起きた。吉松氏は、東京に出るたびに西田税を訪問するなどしていたから、当局の要注意人物であってもこの動きは全く知らなかったが、逮捕拘束されることになる。ただ、226で処刑された実行部隊参加者のうち、何人かは吉松氏の全く知らない人物だった。このことは226事件関係者が、過去の教訓から事前の情報漏洩に留意したためであり、かつ計画が標的を政府の中枢部と高官に限定したからでもあろう。
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