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2022年02月26日15:17

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週刊朝日とラストエンペラー

『週刊朝日創刊100周年!2月25日号』にいろいろ興味を惹かれた記事や写真があったが、その中で最も気になったのが1922年7月23日号の表紙写真だった。

この当時の「ラストエンペラー」こと、愛新覚羅溥儀(1906-1967)は満16歳だが、写真では眼鏡をかけていない。清朝の盛装らしい姿は、ふくよかで恰幅が良く、10歳くらい年上に見える美丈夫だ。後年、満洲国皇帝に担ぎ上げられてからの丸眼鏡をかけ、ひょろっとした姿からは遠い。

僕が興味を持ったのは、「その溥儀がなぜ創刊間もない週刊朝日の表紙を飾ったのか?」 この号は表紙から折り返し、口絵と厳選された表紙写真が掲載。溥儀の写真はサイズが大きいとはいえ、他の表紙写真(その時の話題の有名人。例えば、長嶋茂雄、吉永小百合、山口百恵、小泉純一郎など100年分から選ばれた数十枚)と同じく、説明はゼロ。編集部でも説明できるのは、この表紙を選んだ人くらいかもしれない。

気になったのは、満洲事変は1931年、満洲国建国は翌1932年だから、その10年も前であること。辛亥革命(1911〜1912年)前後についての僕の興味は、柳原白蓮の義父である宮崎滔天から始まった。だから滔天の盟友だった孫文とその周辺、まさに溥儀とは敵対する革命勢力に目が行っていて、ラストエンペラーの事情は承知していなかった。そこで溥儀の自伝『わが半生』を読み始めた。まだ袁世凱政権の辺りだが、後まで読んでも週刊朝日の話は出てきそうにない。

溥儀は革命後も、中華民国政府の許しを得て紫禁城に住んでいたが、1924年11月に退去を余儀なくされ、イギリスやオランダに頼ったが断られた末、日本が保護することになった、という歴史的事実がある。ただ、週刊朝日の表紙はその2年数カ月前である。写真の下にごく小さなキャプションがあり、明るい光の下でルーペを当ててみると「領土なき皇帝 宣統皇帝の近影(...)」と読めそうである。

1922年創刊時の週刊朝日は、朝日新聞と同じく購読者に宅配されていた。当時の朝日新聞や週刊朝日の発行部数は不明だが、知識層が読んでいたと思われる。溥儀の自伝によれば、自身とその周辺や一部の中国人は常に「復辟」(ふくへき:再び帝位に就くこと)を願っていた。

朝日やその読者を含む日本人は天皇をいただく国民だから、復辟までは望まなくとも最後の皇帝に親愛の情を覚えていたのではないか。
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