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2021年09月11日16:51

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石坂洋次郎の復権

三浦雅士『石坂洋次郎の逆襲』を読んだ。新聞で書評を読んで入手して以後、優先順位が下がったままだったのが、最近になって意識の水面上に浮上したのは、アマゾンで1950年代後半から60年代にかけての映画を見ているため。最初は監督の川島雄三や今村昌平を意識していたが、途中から川島が発掘した芦川いづみの出ている映画ばかり見ていた。そうして観た作品に石坂洋次郎(1900-1986年)の原作物がいくつかあった。井上靖や獅子文六などをしのいで一番多かったかもしれない…。

とにかく1950年代から60年代にかけて、石坂の作品は毎年映画化され、それも作品連載終了後まもなく映画が公開される状態が続いた。だが、1970年を過ぎると徐々に半ば忘れられた作家となり、半世紀後の現在に至っている。

石坂と同郷の青森県弘前市出身の三浦雅士は、こうした状況に、国民も文壇も批評家も「石坂洋次郎を(少なくとも半分しか)理解していなかったし、今もしていない」との思いから、この質量ともに十分の石坂論を展開した。石坂の描いた女性像は、国内でも国際的にも評価が高いであろう「谷崎潤一郎や川端康成よりもはるかに優れている」とみる。

石坂の主要作品で中心となるのは、強く魅力的な女性たち。多くは仕事を持って経済的に自立しており、男に選ばれるのではなく、自分が「男を選ぶ」。こうした女性像の原型には、実の母と妻がある。母は反物の行商で成功し、石坂と弟に慶應大学を卒業させる甲斐性があった。対して石坂より4歳年下の妻は、早熟で男たちを引き寄せる魅力があり、女学生だった17歳で結婚し、子供を産んだ後もその性向は変わらなかったという。

三浦雅士によれば、青森の女たちが強かったのは、厳しい自然の中で、中央からはるか遠く、文化も歴史もない辺境で、「女は強くあるしかなかった」という。そしてこれは青森だけでなく、日本の田舎はどこもそうだったという。こうした考えは、石坂の学生時代に慶應で教えるようになった折口信夫と柳田國男、彼らの弟子の宮本常一らの草創期の日本民俗学に底流しており、石坂は母や妻という最も身近な女性たちの存在とともに、大きな影響を受けた。

こうした女性観と女性像は、「伝統的な父権的封建的な世界の中の屍美人しか描かなかった谷崎潤一郎や川端康成には完全に欠落していた」というのが三浦氏の主張である。

――まずはこの辺まで。今日は同郷のMさんがWTCの中にいた911から20年。
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