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2021年09月04日14:00

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「半藤史観」にどう対するか(4):60年安保

1951年、吉田茂総理大臣の下でサンフランシスコ講和条約調印と同時に結ばれた日米安保条約(総理以外に随行員は1人も署名せず)の改定を岸信介首相は1960年6月、30〜35万人という連日の請願デモの中で強行した。当時30歳の半藤さんはといえば、社屋が銀座近くにあった文藝春秋の社員として『週刊文春』の記事を書いていた。仕事の後で国会議事堂近くに行くと、催涙弾による硝煙が立ち込め、戦場跡のようだったという。

翌日か翌々日の編集会議で決まったのが緊急特集「ついにアイクは来ない」と、第二特集「祭りは終った、さあ働こう」ーーこの後者に「文藝春秋らしさ」「週刊文春らしさ」が表れているのだろう(週刊文春だけでなく雑誌『文藝春秋』も安保をほとんど取り上げず、そのために両誌とも売り上げが落ち込んだ)。学生運動の活動家や左翼インテリではない、勤め人とその予備軍の一般学生を対象とした媒体、ということか。

半藤さんは左翼ではなさそうだが、右翼ないし保守でもなかったようだ。レッドパージの嵐が吹き荒れた1950年、駒場の東大教養部の学生だった頃、これに反対して前期試験をボイコットした際、試験を受けにやってくる真面目な学生をキャンパスに入れないよう、ピケラインに加わったという。体が大きくボート部員だったので最前列に出され、警官らと対峙したが、その頃の警官は警棒以外の装備は持っていなかったという。
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