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2021年06月14日00:43

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死者が死者を悼む(4) 小泉信三と信吉 

文春文庫『海軍主計大尉 小泉信吉』を読んだ。著者の小泉信三が亡くなったのは1966年だが、読み始めると「死者が…」という感じはしなくなった。

慶應義塾塾長や皇太子(現上皇)の教育係を務めた経済学者、小泉信三の長男信吉(しんきち;なお信三の父は同じ漢字で「のぶきち」)が満24歳で戦死したのが1942年。最愛の息子を追想するこの本は翌1943〜44年に書かれたが、印刷・上梓されたのは戦後の1946年で、息子を知る人などごく限られた人のための私家版としてだった。

編集者として小泉信三との付き合いがあった半藤一利氏が、著者の信頼を得て私家版を読ませてもらい、改めて出版を申し出たが断られ、信三の死後に未亡人の許可を得て、その年に文藝春秋から発行された。僕が新聞などで単行本の広告を見たのは1966年なのだろうが、今回読む気になったのは、今年1月に亡くなった半藤さんを追悼する文春ムックの中で、半藤さんが勧める多くの本の1冊に挙げられていたことによる。

本の中で小泉信三・信吉父子はともに、書かれたのが戦時中にもかかわらず、軍国主義にも皇国思想にも染まっていない(小泉信三の思想は別に大きなテーマになりそうだ)。信三は当時すでに慶應の塾長という立場にあり、政府首脳や軍の幹部らとも付き合いがあった。

息子の成長を回顧する叙述の中に戦局の概観が挟まれるが、学生らを戦場に送り出す教育者ならではの洞察があった。「学徒出陣の前後における学生の態度行動は(中略)学生が父兄や先輩よりも国家の危急を感じ、何の遅疑することもなく、すぐに覚悟を定めた」と観ていた。大人ではなく、学生が最初に国家の危急に対し覚悟を定めたと。ーーこう書いたとき、小泉信三は既に息子信吉を失っていた。信吉の南太平洋海戦での戦死は1942年10月、その知らせを受け取ったのは同年12月だった。

信吉は子供の頃から、「海と船と海軍」への憧れと愛着を抱き続けたという。大学を出て三菱銀行に就職したが、海軍も志望していた。合格して銀行は4カ月で休職して海軍に入り、希望通り船に乗る職務に就き、船の上で敵の砲弾を受けて亡くなった。ーー信三はそれを好きな海の上、船で死ねたのだから本望ではないかと思いたいのだ。強がりめいてはいるが。仮に運よく敵の砲弾を受けずに生還し、長生きしていれば、銀行に戻り、結婚して家族を持ち、平凡な一生を送ったろうが、息子の人生はたまたま短かっただけだという(と思いたい)。このやせ我慢ぶりは、日本男児の美意識か。

とにかく、一人の「海と船と海軍」を愛した若者が生き、24歳で戦死した。そのことを父親が回想し、書いた。
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