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2021年02月04日22:08

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孫文と、宮崎滔天と、北一輝と

1911年の辛亥革命後、孫文が袁世凱に敗れた第二革命後の1913年、日本に亡命した際に上陸したことを記念する碑が横浜の富岡海岸にあり、岸信介が揮毫していることを偶然ネットで知った昨秋から、それが気になっていた。孫文や、中国革命に一身を捧げた宮崎滔天らについて読んだ何冊かの本に、「富岡海岸に上陸」とは出てこないからである。

そこで手元にある上村希美雄、渡辺京二両氏の宮崎滔天に関する本を改めてめくり、ネット検索して分かったのは以下の通り。
 孫文は1913年8月8日に船で神戸に到着し、同19日に赤坂霊南坂の頭山満の隣家に落ち着いた。ある方のブログによると、富岡海岸への上陸は8月17日の夜半だったという。横浜から東京は陸路だろうが、神戸〜横浜間は船ということになる。この間に日数が空いた理由、神戸で上陸しなかった最大の理由は、袁世凱政権の意向を気にする日本の山本権兵衛内閣が入国許可を渋ったことのようである。

――さて今回、渡辺京二『評伝 宮崎滔天』の辛亥革命から第二革命後までを読んで、上記の入国経緯よりもはるかにインパクトを受けたのは、北一輝を引き、踏まえながら、孫文と滔天を批判している点である。その論旨の中心的標的は、孫文の外国頼みの国際主義、滔天の「世界同胞主義」の思想的な手薄さである。
 孫文は当時の中国人には珍しく西洋的な教育を受けている。兄を頼ってハワイに移住して学校に通ったり、香港に戻って西洋医学を学んだりキリスト教の洗礼を受けたりした。フランス革命やアメリカ独立革命を理想とし、辛亥革命の勃発した時はアメリカのコロラドにいたが、帰国して革命の現場にはせ参じるのでなく、イギリスへ行って革命勢力への支援を取り付けようとした。
――これに対し、北一輝は、革命は外国勢力の支援などの条件や環境は二の次であり、何よりもその国の国民の中から湧き上がる力が圧倒的に重大であるのに、孫文はこの根本が分かっていないという。渡辺氏はといえば、北一輝ほど口を極めて孫文を罵りはしないが、北の主張は自己の政治活動の経験からもその通りだとする。
 実は、北一輝によって孫文を批判する同様の論旨は、子安宣邦氏の本でも読んでいたのに、なぜかその時はどこかよそよそしく受け止めていた。北の孫文批判をめぐっては、今回、渡辺氏の1976年に出た本で、初めてズシンと来た。
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