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2018年01月19日02:23

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テロリストの不可避性

東浩紀『観光客の哲学』を読んだ。その最終章は、21世紀の現在の「世界論・存在論としてのテロリスト論」だが、論考で援用されるのは19世紀のドストエフスキーだ。印象的な箇所を引いてみる。

<なぜドストエフスキーなのか。それはいまがテロの時代だからである。第一章で記したように、観光客の時代とはテロリストの時代でもある。(中略)
ドストエフスキーは、信仰が失われ、正義が失われた時代においてひとがテロリストにならないためにはどうすればよいか。そのことばかりを考えていた小説家だった。(中略)
ドストエフスキーの文学は、直接にテロを主題にしていないときにおいても、多くがテロリストの心性に近いところで書かれている。(中略)
その描写は、現代のアメリカやヨーロッパの、組織もイデオロギーももたないホームグロウン・テロリストの心理にかぎりなく近い。>

<地下室人の拒絶と呪詛は、社会主義の理想から必然的に生み出される。テロリストの拒絶と呪詛は、グローバリズムの理想から必然的に生み出される。>

<地下室人は、むしろ社会主義の偽善を指摘している。ユートピアの理想に隠された倒錯的な快楽、「正しいことをすることのエロティックな歓び」に気づいてしまっている。だからそれに巻き込まれない権利を主張する。そしてその主張には理がある。社会主義者から地下室人へつながる、政治的であり性的でもある移行の回路。それこそがドストエフスキーが発見したものだった。この発見は、2017年のいまもまったく色褪せていない。ぼくたちはまさにリベラルの偽善を暴く呪詛の声に取り囲まれている。その声がトランプを英雄に押し上げている。それゆえぼくはいまこそ『地下室の手記』を読み返すべきだと考えたのである。
 世界がどれほどユートピアに近づいたとしても、そしてそのユートピアが完全に近づいたとしても、人間が人間であるかぎり、ユートピアがユートピアであるかぎり、その全体を否定するテロリストは必ず生み出される。それがぼくたちの世界が直面している問題である。その本質は政治の問題ではない。文学の問題である。しかしテロという帰結は政治の問題なのだ。>

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