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2015年09月23日09:22

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「日本のアジア主義」

松本健一『竹内好「日本のアジア主義」精読』(岩波現代文庫、2000)を読んだ(ただし、竹内の原文は再読せず、松本氏の解説部分のみ)。

いつもなら印象的な箇所を抜粋、引用するところだが、内容を見通しやすくするため、記号化、図式化してみる。

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・竹内好が1963年に書いたこの論文を現在評価する難しさは、「アジア」の実体が大きく変貌したことにある。アジアは「屈辱のアジア」A1から「繁栄のアジア」(ないし「成長のアジア」)A3に変貌した。

・福沢諭吉の「脱亜論」と岡倉天心の「アジア主義」は、竹内が説くようにほぼ共通(A1)。20世紀初頭、天心は「ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱」「屈辱においてアジアは一つ」とした(A1)。

・中野正剛は1911年、イギリス留学へ向かう船中、イギリス帝国主義(I1)を象徴するラッフルズの銅像を見ながら「日本人はイギリス帝国主義の方向は目ざさない」とし、1925年の時点で
ペンネームで日本の大アジア主義に対する根源的批判を行っていたが、後に日本を中心とする別個の帝国主義(I2)に転向した。

・孫文が構想した「アジア主義」は帝国主義からの「解放戦争」を企図している(A2)。孫文らによれば、日本の大アジア主義は帝国主義または吸収主義の別名(I2)であり、「中国を侵略する隠語」。孫文は日本に「対支21カ条の要求」(1925年)の取り下げを望んだ。

・しかし頭山満は、日本国民はそれを望んでいないとすげなく対応した(I2)。

・北一輝は、日本の侵略政策(I2)を徹底的に批判し、中国革命の現場からナショナルな日本の革命へと帰還した。

・重松葵は、大東亜戦争の「目的」を明確に設定しようとした、ほとんど唯一の戦争指導者(政治家)。外相として彼が作成した(させた)「大東亜共同宣言」は、大東亜共栄圏の思想的根拠を表明したもの。その思想は「大東亜を米英の桎梏より解放」することを目ざしたもの(A2)。

・開戦時そして戦時中、竹内好にとって、大東亜(太平洋)戦争は、脱亜として進んだ日本の「近代」、日本が理念型として模倣した西欧の「近代」を「超克」するものとして捉えられた。竹内は、「大東亜戦争は、植民地侵略戦争(I2)であると同時に、対帝国主義戦争(A2)でもあった」とした。

・1964年は「アジア初」のオリンピックが開催された年であり、高度経済成長の真っ盛り。松本氏によれば、この年は日本が「屈辱のアジア」(A1)でなくなった(A3)、また国民のライフスタイルの変容という点で、敗戦の1945年よりも大きな節目を象徴する年。

・その後、日本が経済大国になり欧米に追いつくと、「遅れていたアジア」(A1)ではなくなり、横一線の「近代そのもの」に到達した。

・またその時期と前後してアジア各国に、独立や民主化、経済成長など大きな変化が起こり、「成長のアジア」や「アジアの世紀」を迎えている(A3)。




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