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2012年02月28日12:44

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「ドライビング MISS デイジー」の補足

「創世記」で「エデンの園(本物の天国)」を追われた人間が辿り着いたのが今居る「この世界(現世)」だ。
だから「この世界(現世)」で生きている限り当然「えの園(本物の天国)」へは行けない。
其処へ行けるかどうかは死んだ時の「審判」で決まる。

「創世記」で人間が「エデンの園(本物の天国)」を追われたのは人間が「エバ(他の人間)」に唆されて「(本物の)神」の言い付けを破り「食べてはいけない物を食べた(してはいけない事をした)」からだ。
詰まり、人間が「エデンの園」を追い出されたのは「(本物の)神」を軽んじた結果だと言えるだろう。

対して「黙示録」では人間が「この世界(現世)」での「罪」を洗い浄めて「審判」を通過し「(本物の)神」の下へ行く事を表している。

これは仏教では「転生」と言い表されている。
仏教で「転生」と言えば動植物が死んで土に帰る事を指すが、では死んだ物の魂は何処へ帰るのか?
それは「(本物の)神」の下である「エデンの園(天国)」へ帰るのだ。

そして「この世界」での「罪」とは、俺が「わが谷は緑なりき」で書いた「仕事」の事だ。

これに付いてはアニメか漫画で「働いたら負け」という台詞が有ったのを思い出す。
この場合の「働く」とは「何も考えずに働く(いわゆる労働)」の事では無く「頭を使って働く(仕事)」の事だ。
これを上手く表しているのが「マタイによる福音書」の18章3〜5節と19章14節だ。
勿論、ここで言われている「子供」とは年齢を指すのでは無い。
「子供の様な人(「労働」は分かるが「仕事」は分からない無垢な人)」を指すのだ。

その証拠としては「アリア」のコメント欄と「わが谷は緑なりき」に書いた文章が揚げられる。
というのは、全く「仕事」を意識していなかった筈の俺が臨死体験の時に「(本物の)神」に会っているからだ。

「この世界」は或る意味ではさいの河原に似ている。
「石を積み上げ(仕事をして架空のお金を貯め)」ても「鬼(本物の神)」に崩されて、始めからやり直しをさせられる。
人間の積み上げた「石(架空のお金)」は「審判」の時「鬼(本物の神)」の前では通用しないからだ。

※この日記本文とコメントの内容に他意は無い。
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