昨年発売された尾崎豊のライヴDVDだ。
毎年この時期にはCDなりDVDなりが出ているので、今年も出るかと期待していたが、どうやら出ないらしい。
残念だ。
出来れば来年に期待したい。
今日は俺の誕生日だ。
なるべく考え無い様に努めていたが、前日母親から「明日は誕生日だね。」等と言われてしまって限り無く鬱だ。
あれからもう直ぐで7年になる。
二度と会わないのが分かっている以上、俺にとっては、死んだも同じ人だ。
もし、何処かで出会う事があったとしても、全ては変わってしまっている。
何よりも、俺自身が昔の俺では有り得ない。
あれが18の頃、今年で25になる。
誕生日が来る度に起算してしまう。
そして地獄は繰り返す。
悪い癖が付いてしまった。
思い起こせば、また無駄に長生きしたものである。
この日が近付く度に「俺は何故生きているのか?」と、何処からとも無く、この疑問が湧いてくる。
あの日に消えていれば、この苦悩も無かっただろう。
謂わばこれが識る事を選んだ苦悩だ。
今日はモチベーションが上がるはずも無いので時間休で帰って、帰宅早々、1ヶ月待ちの母親の検査結果を聞いた。
転移している可能性が高いらしい。
術後、それなりの期間が経っているのに快くならない母親を見ながら、何と無くそうでは無いかと思っていたが、予感的中だ。
そして重ね重ね鬱だ。
という訳で今日は、しこたま呑んでいる。
太宰は余りにも良い人だから呑んだという。
本当だろうか・・・。
しかし俺もそのくちだ。
批判は出来無い。
今の俺には明日の事等、何処吹く風だ。
この1月、考えさせられた。
死を越える信念の持ち合わせ等、俺には無い。
死が、無だとするなら総てはそれに飲み込まれるだけだ(俺はこう考えている)。
天国や地獄が有るなら(夢物語だろうが)、其で事後的な清算も可能だろう。
だから生にしがみく以上、何処迄行っても、辿り着けやしない。
どんな高邁な思想を持ち合わせていようとも、所詮、人間は惰性で生きているに過ぎんのだから・・・。
しかし、死が例え「無」への入口に過ぎないとしても、何処かへ辿り着けるかも知れない期待、「生」での可能性だけは捨てさる訳にもいかんのだ。
だから惰性で生きるのも楽では無いと、つくづく考えさせられた。
※この日記本文とコメントの内容に他意は無い。
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