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2022年01月10日15:08

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「法の支配」との出会い

若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』の中で印象的な一節があった。2年余りをかけて夢に見たヨーロッパ、ポルトガルのリスボンにたどり着いた少年使節が、王国の統治方法について見聞した場面で、今日でいう「法の支配」について生まれて初めて聞き驚嘆する。この地ではどんな王侯貴族でも法の下では平等に裁きを受ける。「善政とは法と法文を遵守するもの、悪政とは実力、強権、私欲を顧みるものだ。このためあらゆる首都には市民に正しく法を施行する最高官吏が任命され...」と教えられる。少年らが生きていたのは戦国時代末期で、領主など権力者の理不尽な振る舞いをも当然として受け入れていただろうから、聞いたことが信じられなかったのである。

このエピソードの典拠は、『クアトロ・ラガッツィ』では何度もサンデ『見聞録』として引かれるが、巻末の注の泉井久之助他訳『デ・サンデ 天正遣欧使節記』のようだ。元はラテン語の本で、使節のローマからの帰りをインドのゴアで待ち受けたヴァリニャーノが編纂したもの。彼は少年使節のそもそもの発案者で、少年らを日本から連れてゴアまで同行したが、イエズス会本部の職務命令で当地にとどまり、その後の旅に同行できなかった。彼が公式記録や少年らの日記をもとに、日本の信徒向けに対話形式のスペイン語で書いたものをデ・サンデという中国伝道の長老がラテン語に訳し、1590年にマカオで印刷、刊行された。ーーそんな経緯で生まれた本だから、ヴァリニャーノの知見に沿った内容と考えられる。

ヴァリニャーノはナポリ王国の名門貴族の家に生まれ、名門パドヴァ大学で法学と神学を学んでいるから、プラトンやアリストテレスをはじめ法哲学や法制史にも通じていただろう。もしこれが日本語に訳されていたら後の日本の歴史に影響を与えたかもしれないが、その前に秀吉や徳川家康によって禁書にされていただろう。
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