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2020年12月01日03:07

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清水次郎長って誰

岩波新書の高橋敏『清水次郎長――幕末維新と博徒の世界』を読んだ。恐らく日本史上最も有名なヤクザの親分だろう次郎長の生涯(1820年〜1893年)と、その生きた時代について一通りのことを知ることができた。

アカデミックな日本史研究者である著者が、次郎長死後の講談や浪曲、映画など膨大なフィクションや伝説をかき分け、史料批判・考証の後も信頼できる史料と合理的推論によって、実在の人物としての次郎長の実像に迫った。

博徒(もともと博打そのものが禁制の重い罪だった)などヤクザの世界は、もめごとが起きると最終的には腕っぷし(暴力)が物を言う世界であり、個人や組織間の正面からの喧嘩、または卑怯な策略によって、勝った者が生き残る。次郎長は実力があり運にも恵まれて、明治維新後も生き残り、畳の上で死んだ。

ヤクザ特有の長脇差をはじめ銃器も含めた軍事力と実戦での経験から、各地のやくざらは藩や幕府に匹敵する実力集団だったから、各組は幕末期の勤皇、佐幕のどちらにも付かない「中立」でいることはできなくなっていた。次郎長は本来は佐幕だったが、明治初期維新政府の清水を含む駿府統治の都合から土地の実力者として政府に取り立てられる。その後、維新政府の「博徒大刈り込み」政策で次郎長も下獄したが、年下だが師と仰いだ山岡鉄舟との縁などにより早期に出獄できた。その逆に、勤皇派に属し次郎長のライバルだった甲州の黒駒の勝造や、草莽の志士で赤報隊隊長・相楽総三は非業の死を遂げた。

当時の人間を、そう簡単に勤皇か佐幕かに二分はできないだろう。山岡鉄舟も勝海舟も榎本武揚も幕臣だったが、明治政府に仕えた。

この本からいろいろなことを教えてもらったが、いわゆる「股旅」についても目を開かれた。当時のやくざがいつも旅から旅への暮らしをしていた理由の一つが、刃傷沙汰や不義理をして兇状持ちとなり藩や幕府に追われたり、敵に仕返しを狙われたりして、よその藩に逃亡せざるを得なくなると、さまざまな成り行きで培った(ヤクザや博徒の)ネットワークが役に立ち、それを頼に旅から旅への稼業を続けていたという。
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