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2014年12月13日19:51

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原爆体験=丸山真男の思想的限界

平野敬和『丸山眞男と橋川文三 「戦後思想」への問い』(教育評論社、2014)を最初から8割ほど読んだ。

書名には二人の名が併記されているが、この本のページ数の大部分は丸山論が占めている。
その中で、僕にとって最も刺激的だったのが、丸山自身の広島での被爆体験と、それについて彼が生涯にわたって「思想化できなかった」ことに触れた個所である。

その核心は、次のような鶴見俊輔の洞察である。

<丸山真男の方法によっては、みずからがくぐりぬけた原爆を位置づけることはむずかしかったのではないか、ということだ。丸山の方法は、ヨーロッパ思想の型を守っており、ヨーロッパ思想の崩れる彼方にあるものを、学問のヴィジョンとしてもっていない。(中略)
丸山真男の方法は、(キリスト教の)神を想定したほうが自分の論理としては整然とする、というところがありはしないか。私には、原爆投下は、その神の自殺のように思える。>

――鶴見は、このように、丸山が身に付けた、ヨーロッパ的=キリスト教的思考態度によっては、例えば、日本の軍隊はシャープに分析できたのに、自身の原爆体験を対象化できなかったと、丸山自身との付き合いの中から感じ取った。

ヨーロッパ思想の崩れる彼方にあるものとは、鶴見自身にとっては、「人間はいつか畜生道まで高まって、同種の間の殲滅戦をまぬかれるというヴィジョン」である。



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