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2016年06月26日05:09

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関ヶ原史料「最後の手紙史料」島津討伐

○去年の九月から始めて、九ヵ月。こればっかりはやっていられないからこそ、この場で定期的に書くと決めて、少しずつ進めてきました。『日本戦史関原役』の収録史料も、いよいよ最後です。本多忠勝が黒田如水に宛てた手紙で、十一月十四日付。最後の最後は、くだらない偽書で終わることとなりました。

●手紙一三五号の三番「心の内では、これからお伝えしようとしていた折に、御手紙をいただいたので、恥ずかしく思っております」「豊後方面、あなた様の御覚悟で、早々に命じられたのは、ひとえにあなた様の御手柄であると思います」「柳川方面へ、早々に御働きのところで、鍋島が一戦となり、柳川の者を多く討ち取られたそうで、納得というものです。あなた様の御働きがあってのことだろうと思います」「薩摩方面、加主計、鍋島、あなた様の合意で御働きになるという話には、なるほどと思います。ですが、まずは御無用にと申されています。詳細は井兵少がお伝えするでしょう」「甲州と特別に話しました。このたびの甲州の御手柄は、あちこちで御働き、才覚を示さないところはないほどでした。御安心ください。いっそう内府も好意を申されております。御安心ください」「筑前の国は甲州へくだされました。このうえさらなる御国をも、またも御取りになることもありえますので、御安心ください」「そちらの御手が空きましたなら、少しはあなた様も、こちらを御見舞いになるべきだと思います。なんであれ、御目にかかって御話を致したいものです」「この程度ですが、小袖を三つ、羽織を二つ送ります。手紙のついでというものです。もしもこちらで対応する御用などがありましたら、御命じください」「追伸。立花の城を御受け取りになって、兵備を入れておられますでしょうか。御飛脚を立てられ、早々に御伝えくださいますようにと、申されております」

○柳川で、立花宗茂と鍋島直茂が合戦した、という話。「もちろん鍋島ごときの手柄というより、如水様の御働きがあったからですよねえ」と変なお世辞。「鎮西一の弓取り」立花宗茂も、さすがの「軍師官兵衛」黒田如水にはかなわない、としている意味なのでしょうが、立花が「戦闘をして、敗けた」のであれば、ただでは済みません。「戦うことが武士の名誉だ」と考えて、立花宗茂ともあろう者が戦わずに降参することなど「ありえない」と思っての創作でしょうね。それが後世の典型的な考え方ですから、こちらのような手紙を偽造することはあっても、前回に示した「一三五号の二番」を偽造することは、まずありえないと言えるのです。さらに、「筑前は黒田甲州長政がもらった」と書くのは「二番」と同じでも、そこに加えて「もっと国を取れますよ」と言うのですから、「いま再びの国盗り合戦。天下取りに便乗すべき」の考え方。このような手紙史料は、今まで九ヵ月にわたって見てきた中に、確かにいくつも存在していたわけですが、その数と同じくらい「違う考え方の手紙」もあったわけです。この点の違いが明らかなのは、三番の書く「薩摩方面の働きは御無用に」の部分です。「戦う必要はありません」と断定的に言っていますが、これではまるで、前線の如水たちの知らないところで、それこそ島津と徳川のホットラインで話がついたから「もう戦争はしないと決まった」かのようじゃないですか。「二番」が伝える状況「これから戦争になるかもしらんが、まずは言い分を聞いてやってくれ。まだ越境侵攻はしなくていいですよ、どうせ冬に入って寒いしね」の真逆ってものです。

○次の手紙が本当の最後。細川忠興が息子の忠利に宛てたもの。『細川家史料』が収録しているものですから、間違いのない原本史料です。十一月二十八日付。

●細川忠興の手紙五号「見舞いのために牧五介をよこしたことは、喜ばしいことだ。私は豊前の一国と、豊後で十一万石を拝領した。ありがたいことだ。おまえのことも、来春は呼び寄せるつもりなので、そう理解をしておくように。なお、五介が伝えるだろう」「この手紙を肥前殿の御母儀へ届けてほしい」

○「一三五号の二番」十一月十二日付では、黒田長政が「筑前をもらうことになった」と井伊直政が書いていました。こちらの手紙では、忠興が「豊前と、豊後の一部をもらった」と書いています。論功行賞の「領地分配」が始まっているようです。よって「島津討伐は、戦争にならないまま十一月中に終わって、天下取りの戦いはすべて終わったから、論功行賞が始まった」という解釈になるのかもしれませんが、忠興の手紙は「息子が陣中見舞いを送ってきた」から書いたものです。つまり、丹後で十八万石だったのが、豊前と豊後で約四十万石へ、領地が倍増したことを「すぐには報せていない」ということです。正式に安堵状も発行されているのなら、その時点で「大喜びで忠利に報せている」はずだと思いますので、たぶん「内示があっただけ」なのだと思いますね。それに、たとえ「島津討伐は終わった」のだと仮定しても、まだ「上杉が残っている」わけです。ちなみに『細川家史料』が収録している「忠興の忠利宛て」は、この手紙で慶長五年の分はおしまいで、次は六年四月のもの。そこに「おまえのことだが、前の手紙にも書いたように、景勝の決着までは、おいとまを言い出すのもどうかと思われるので、そのまま置いてある」の記述があって、「まだ上杉の問題は終わっていない」ことが示されています。忠利への手紙で何度か「いずれ呼んでやる」と書いていた忠興ですが、「御詫びが済んでの上洛か、または御働きがあって終わるのか、そのときにおいとまを申しあげて、別の子と交代させる」と書き、「上杉との戦争もありうるが、降参で終わるかもしれない」という認識を示しているのです。島津の問題もおそらく同様で、五年十一月の段階では「これからどうなるか、まだわからない」と見るべきです。ゆえに一三五号は「二番」のほうが本物で、三番は偽書だと言わざるをえないのです。

○さて。慶長五年分の手持ち史料は、これで終わりです。戦争の決着には至っておりませんが、一通りの手紙史料を見終わった今だからこそ、改めて、戦争の発端に戻りたいと思います。そもそも「関ヶ原の合戦」は、なぜ起こったのか…。
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