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2016年04月30日01:08

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関ヶ原史料「小早川へ謝辞?」戦後一一一号

○小早川秀秋の重臣「稲葉正成」に宛てて、家康の書いた手紙。九月十七日付。

●手紙一一一号の一番「村越茂助のところへ来た手紙、読みました。このたび中納言殿が忠節となったことは、あなたの考えによる働きであったからだそうで、とても喜ばしいです。なお、茂助が伝えるでしょう」

○さらに、村越茂助直吉の書いた「添え状」もあります。同じ九月十七日付。

●手紙一一一号の二番「御別紙については、お見せ致しました。このたびの秀秋様の御忠節のこと、あなたが差配したからであると、内府は一段と喜ばしく思われております。ただちに直接の返書でお伝え致します。明日は上洛となりますので、万事は京都で伺うことに致しましょう。御用などがありますのなら、粗略に思うことはありませんので」

○結城秀康の伊達政宗宛て「手紙一二三号」には、九月十七日の佐和山落城が書かれていました。こちらの一一一号の二番には、「明日は上洛」の言葉があります。「一二三号」の真偽はともかく、こちらでも佐和山落城を十七日としているようです。ところで、小早川軍はどこにいたのでしょうか。定説では「秀秋が佐和山攻撃に参加していて、家康は佐和山にいない」のですけども、家康の伊達政宗宛て「手紙一〇九号」には、家康が「佐和山まで今日着馬」と書いてあったわけです。秀秋と家康が同じ場所にいたのなら、こんな手紙を交わすことはないでしょうから、定説どおりに「家康が佐和山にいない」のか、「一〇九号」が本物で「秀秋が佐和山にいない」のか、どちらかになってしまいます。もちろん「この手紙」が偽書ならば、「秀秋と家康が佐和山にいた」もありえます。どの手紙史料を本物と見るかで、細かいことながら、状況がいろいろと違ってしまいます。

○一一一号の一番も二番も、「秀秋が寝返って、東軍に忠節を見せたのは、稲葉正成が秀秋を説得したからだ」と書いています。「稲葉のお手柄」ってわけですね。井伊と本多の起請文「手紙一〇八号」は稲葉と平岡に宛てていたので、起請文を受け取った稲葉が積極的に、秀秋へ「寝返ってください」と懇請したことになるわけです。だとすれば、稲葉は「私が説得したから秀秋様は寝返ったんですぜ」と、わざわざ自慢げに報告してきたことになりませんかね。しかも、その手紙を野戦決着のあと十五日中に書いたなら、家康の手に届いたのが十七日です。小早川軍が佐和山にいたとして、家康は「手紙の到着に二日もかかる」ような場所にいたことになってしまいます。いったい家康はどこにいたのでしょうね。反対に家康が、佐和山ではないにしろ、まだ滋賀県内にいたのなら、稲葉が手紙を書いたのは十六日にズレ込みそうです。すでに小早川軍は関ヶ原から移動していて、佐和山で布陣している状況で、「関ヶ原の寝返りは、実を言うと私が説得したからなんですよ」という手紙を書いたわけでしょうか。なんか変な感じがしませんかね?

○一番には「茂助が伝える」とあって、茂助の「添え状」二番も揃っていて、二通の内容も一致していて、いかにも本物っぽいようでいて、実に「おかしな」手紙なんです。しかしながら、「優柔不断に迷い続けていた秀秋を、徳川軍が鉄砲で威嚇したり、稲葉が説得したりして、寝返らせた」という定説とは、「内容が合致する」わけですね。そのくせ「タイムスケジュール的に変」だってわけ。どうにも疑わしいと言わざるをえません。そもそも「秀秋を寝返らせた」最大の要因は、井伊直政と福島正則が連携して「秀秋様が寝返りやすいようにお膳立てをした」と見られる戦闘展開であり、それを見抜けなかった宇喜多秀家の戦術ミスなんですよ。そのうえ史料自体に「疑問点」があるのなら、この史料を現実の戦術よりも優先する価値などありません。「稲葉のおかげ」と書く一一一号は偽書でしょうね。
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