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2016年05月03日02:55

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関ヶ原史料「毛利と停戦?」戦後一一二号

○関ヶ原決戦で勝利して、石田三成らの軍勢を討ち破ったからといって、戦争が終わったわけではありません。西軍の総大将は毛利輝元であるのだし、まだ毛利軍との戦いが残っているのです。ただし、定説では「吉川広家が裏切りに応じたので、決戦以前に毛利軍との戦いは回避されていた」ことになっていますので、石田の佐和山城が落ちた段階で「戦争終結」ということになるのでしょうか。そして東軍が「毛利へ手紙を出した」という流れになるようですね。九月十七日付で、豊臣軍団の福島正則と黒田長政が、毛利輝元宛ての手紙を書いています。

●手紙一一二号「わざわざ申し伝えます。このたび奉行どもが反逆を構えたことによって、内府公が濃州方面へ御出馬となったことにつき、吉川殿、福原殿が、輝元の御家を大切に思われて、両人のほうへ御胸中。ただちに内府公へお伝えしましたところ、輝元に対して少しも思うところはないとのことで、御忠節であるならば、ますます今後も話し合っていきたいとのこと、両人から申し伝えるようにとの仰せでした。詳しくは福原に口頭で説明してありますので、お伝えすることでしょう」

○この手紙を受け取って、今度は輝元が返事を書いたようです。宛名は福島正則と黒田長政の連名で、九月十九日付です。

●手紙一一三号「御手紙を拝見しました。このたびは先手において、吉川、福原以下が接見していただき、御配慮を頂戴して、内府公の特別の御懇意を得られましたことは、ありがたいことでした。特に、支配領国に変更はありえないとのこと、御誓詞までいただいて、安心とはこのことです。増右、徳善とも話し合いますので、よくよく御取り成しが肝要です。なお、両人にお会いできますように」

○どちらも毛利家の家史から採録されていますので、原本ではありません。正直に言って、訳しづらい文章ですね。十七日に福島と黒田が佐和山あたりで手紙を出し、十九日に大坂で受け取った輝元が返事を書いた、と考える限りは時間経過に問題もないような感じですが、内容には不審な点が多々あります。たとえば吉川と福原が、福島と黒田に会っていること。少なくとも一一二号の末尾には、原文で「福原口上に申含候」とあって、直接に福原と会って話していることを示しています。毛利家の家老であるはずの「福原式部」が、一軍を率いて南宮山にいたのであれば、いつ、どのようにして、福島と黒田に面会できたのか、実際の行動が見えないのです。そして一一三号には「御誓詞までいただいた」の文章。これは文脈からして「毛利家の領国に変更がないことを、家康が認めた誓詞」となるはずです。「手紙一〇七号」井伊と本多の起請文には、仮に「これが本物であるとすれば」ですが、「御忠節を決められれば、内府の直接の証書を、輝元のために送りましょう」とありました。ゆえに家康は約束どおり、「あとで誓詞なんか平気で無視する」にしても、すぐに「領国支配を認める誓詞」を書き送ったようにも思えます。その場合「家康が誓詞を書いた」のは、いつなのでしょうか。

○あえて「可能性」を考えてみましょう。吉川軍と福原軍が南宮山にいたと仮定し、関ヶ原決戦の際、彼らは「どんな理由」であれ、南宮山に居続けたのだとします。野戦衝突をした十五日中に、「手紙一〇九号」によれば「大垣城が降参」です。よって「関ヶ原の最前線で戦った」福島と黒田は、追討戦には参加せず、後方へ戻って、再び「大垣城の包囲」をしたことになります。南宮山に残っていた吉川は、包囲軍に軍使を送り、一一二号の書く「両人のほうへ御胸中」を伝えてきた、となります。すなわち「毛利家が処分を受けないのなら、停戦に応じてもいい」という講和の使者を、福島と黒田へ送ったことになるわけです。すると一一二号は、福島と黒田が「ただちに内府公へお伝えしました」と書き、家康は毛利家に処分がないことを「両人から申し伝えるようにとの仰せ」だったわけです。この返事を、福島と黒田が吉川軍に伝えますと、南宮山にいた救援軍は撤収です。「後ろ巻きを失った」大垣の籠城軍は降参表明。城の接収作業の最中に、将の福原が自ら東軍の陣地を訪問して、福島と黒田に面会し、口頭で停戦の約束を交わしたのが、「十五日中の出来事」なわけです。その後、停戦交渉に関する使者が、大垣と家康本陣のあいだを何度か往復して、家康の「誓詞」が届いたのが十七日。それを福原が受け取って、福島と黒田が輝元に宛てた手紙も預かり、大垣を出ると、大坂へ帰着したのが十九日。読んだ輝元が「それで構いません。停戦に応じます」と返事を書いたことになりますが、「増右、徳善とも話し合います」と言っていますので、「毛利家との停戦は成立したが、豊臣家との停戦はまだ」となります。このようにタイムスケジュールを組み立てていきますと、特に矛盾もないようですが、一つの疑問が生じます。それは、少なくとも毛利軍総大将の輝元と、停戦合意の確認が取れる前に、南宮山の吉川軍、安国寺軍、毛利秀元軍の「毛利勢」が「撤収している」という流れです。前線の判断で「停戦の申し込み」をするのはいいとしても、最終的には「輝元の停戦合意」が届いてから、南宮山の救援軍が撤収し、それから大垣城の降参となるはずなので、「大垣城を取った」のは二十一日以降です。よって一一二号が本物なら、「一〇九号」は偽書と見なければなりません。反対に「一〇九号」が本物で、「大垣城の降参退去」が十五日であるならば、南宮山の毛利勢が「いつ撤収した」のか、停戦交渉が「いつ始まった」のか、そのとき福島と黒田が「どこに」いて、福原が「どのように」福島と黒田に会ったのか、一一二号の記述では何もわからないのです。
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