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2016年05月09日01:00

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関ヶ原史料「停戦確定?」戦後一一六号

○毛利輝元が、徳川家の井伊直政と本多忠勝、および豊臣軍団の福島正則と黒田長政、それぞれに宛てて起請文を書いた九月二十二日。この日に家康の書いた別件の手紙があります。宛名は長野県川中島の森忠政です。

●手紙一一六号「御手紙を読みました。大変に喜ばしく思います。それというのも、このたびはそちら方面に残られたこと、もっともです。ますます境目の御処置などに、油断なく専念です。上方は、さっそく命じましたので、御安心ください。詳しくは永井右近大夫が伝えるでしょう」

○詳細のわからない手紙ですが、内容の推測は可能です。森忠政が「そちら方面に残られたこと」を伝えてきたのですから、おそらく長野県へ出た秀忠の出陣には「合流しなかった」ということのようです。それを家康は「もっともです」と了承し、「境目の御処置などに油断なく」と言っています。そして家康は「上方は、さっそく命じました」と書いています。原文だと「上方早速申付候」で、これは「上方を支配下に置いて、さまざま処置を命じた」の意味となりそうです。すなわち、この手紙が本物であれば、二十二日の時点で、毛利家とも豊臣家奉行衆とも「停戦が成立している」ことになりそうなのです。では、もう一通、確実な史料を見てみましょう。同じ九月二十二日付、細川忠興の手紙です。息子の内記忠利に宛てたもので、『細川家史料』が収録する原本史料です。

●細川忠興の手紙四号「わざわざ人を送る」「このたび関ヶ原方面で一戦をなされて、ことごとく切り崩し、数千人を切り捨てになされた。私の手勢も首を二百余も討ち取った。安心するように」「私は丹州亀山に移動し、今日、城を受け取った。安心するように」「丹後は異状もない。もう幽斎に御目にかかっている。安心するように」「この手紙、岩槻の浄国寺へ持って行かせるように」「私の指物を、早々に、この者に持たせて送るように」「おまえのこと、やがて迎えをよこすので、安心するように」「追伸。このことを三人の者たちに伝えるように」

○関ヶ原戦の勝利を息子に伝えるものですが、決戦直後には書かず、二十二日になって書いたことを、前文の「わざわざ人を送る」が示しています。おそらく、丹後田辺城の無事を確認してから、報せたわけでしょう。細川家にとって、今回の戦争は「田辺城の細川幽斎を救援すること」が第一目的だったはずなのですからね。本文の第二に「丹州亀山へ移動し、今日、城を受け取った」とあります。丹波亀山城は、大坂三奉行の一人「前田徳善院玄以」の居城と見られます。滅んだ家の史料は、ほとんど手元にないので確認できませんが、徳善院は大坂城にいたはずなので、城代か、または親族と見られる「前田成勝」が亀山城にいたようです。田辺城の包囲戦には、丹波の大名衆が動員されていましたので、成勝も参陣していたのかもしれません。そして関ヶ原戦の敗北を知り、それぞれ居城に戻ったのでしょうか。田辺で籠城していた幽斎は、逆に丹波へ出陣してきて、忠興の亀山城包囲に合流した模様。第三文で「もう御目にかかった」とありますからね。そうだとすれば、定説で言う「関ヶ原決戦の前に、幽斎は朝廷の仲介を得て降参し、田辺城を退去した」には疑問が出てしまいます。なぜならば、投降した幽斎の身柄は、安全を保障する朝廷が引き取って「京都へ移された」と考えるべきで、京都にいたのなら、そこで忠興と出会っているはずだからです。亀山城は京都府亀岡市にありますから、細川軍は京洛を通過しているはずなので、二十二日より前の「これから亀山に行く」の段階で、息子に手紙を書いているはずだろうと思われるのです。なお、定説に則したことを書いていたのは、石田三成の佐竹宛て「六〇号」の「禁中から命は赦免のおはからいがあった」と、石田の増田宛て「一〇四号」の「丹波のこと、手があいたそうなので」の二つですが、どちらも偽書でしかないわけです。しかも「一〇四号」は十二日付ですから、田辺城の降参表明が十日ごろとなってしまいます。それよりは「田辺の包囲戦が続いていて、敗戦の報せが届いたから包囲軍は撤収した」と考えるほうが自然だし、文中の「丹後は異状もない」の表記とも一致するように思えるわけです。当時の公家の日記史料『兼見卿記』を手に入れ損なったため、「朝廷の関わりがあったのか」「田辺城はいつ開城したのか」について、記載があるかどうかを「自分で確認できていない」ことが残念です。「歴史家は確認してから言っている」と信じられないからこそ、こんな作業を今さらいちいちしているわけでして…。

○十五日に関ヶ原で戦って「首を二百余も討ち取った」忠興が、手紙で佐和山城のことに少しも触れていないのは、包囲戦に参加せず、先行して丹波へ向かったからなのかもしれません。その場合、二十二日に城を受け取っているので、亀山城は「包囲されて、即日に降参表明」ではないことになります。大坂にいる前田玄以から「開城の指示」があった可能性も考えられるので、二十二日以前に停戦合意が成立しているのかもしれません。すると一一六号も本物ということになりますが、森忠政が「そちら方面に残った」と報告してきたことの意味が、厄介です。定説では秀忠が「真田戦を放棄して関ヶ原へ急行した」ことになっていますからね。森が「残った」のは「秀忠の移動に付いていかなかった」の意味であれば、「境目の御処置に油断なく」は真田に備える意味となります。一方「秀忠の真田攻めに参陣しなかった」の意味であれば、「境目を接する誰に油断するな」と家康は言っているのでしょうか。森が何月何日に、どんな状況で書いた手紙なのかを、判断可能な記述が全然ないため、真偽も微妙な感じで難しいです。
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