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2016年07月02日02:53

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関ヶ原史料「豊臣秀吉は何を遺言したか」発端

○関ヶ原の合戦よりわずかに二年前、慶長三年の八月に豊臣秀吉が亡くなりました。「秀頼のことを頼みます」と書いた遺言状は、よく知られています。

●秀吉の遺言状「秀頼のこと、成り立っていけるように、ここに書きつけた者たちに頼み申します。なんであれ、このほかには思い残すこともありません」「返すがえす秀頼のこと、頼み申します。五人の衆に頼み申しあげます。詳しいことは五人の者に申し渡しました。名残惜しいことです」

○日付は八月五日で、亡くなる十三日前。宛名はひらがなで書かれていて、「いへやす、ちくせん、てるもと、かけかつ、秀いへ」の五名です。「ちくせん」は前田利家なので、いわゆる「五大老」たちです。「返すがえす」の追記に書いてある「五人の衆」が五大老にあたる者たちで、「五人の者に申し渡した」のほうは五奉行を指しています。「秀頼を頼む」と言う以外、何も書いていないのですが、これとは別の遺言状が伝えられています。七月十五日に伏見城で、列席者の立会いのもと、口述されたものだそうです。かなり長いのですが、講談社学術文庫『太閤の手紙』に、全文が翻刻引用されています。口述を筆記した者の立場で敬語を使っているため、ちょっと訳しにくい文章ですが。

●秀吉の口述遺言状「内府は長く律儀なさまをお見せになり、近年は親しい関係で、それゆえ秀頼様を孫婿となして、秀頼様を御取り立てくださいますようにと御決めになった。大納言殿や年寄衆五人のいるところで、たびたび仰せられたことである」「大納言殿は、幼い友達の時分から律儀を御存じであるゆえ、秀頼様の御もり役に付けて、御取り立てくださいますようにと、内府や年寄五人のいるところで、たびたび言われたことである」「江戸中納言殿は、秀頼様の御舅になるのだから、内府が御年も寄られて御病気にでもなられた場合、内府のように秀頼様のことを御差配なさるようにと、前記の者がいるところで言われたことである」「羽柴肥前殿は、大納言殿が御年も寄られて、御病気がちでもあるので、今までどおり秀頼様の御もり役に付けるので、外聞もよく誠にありがたいことと思い、御身に替えて御差配なさるようにと仰せられ、ただちに中納言となし、橋立の御壺、吉光の御脇差も下されて、役領も十万石を御与えである」「備前中納言殿は、幼少から御取り立てになってこられたのだから、秀頼様のことは逃れようもないことで、御奉行五人にもならせたし、また、おとな五人の内にも御入れになり、諸事職務をおとならしく、ひいきや偏見なく御差配なさるようにと御決めになった」「景勝と輝元は、御律儀なので、秀頼様のことを御取り立てくださいますようにと、輝元へは直接に仰せられて、景勝は領国にいるゆえ、皆に話しておかれた」「年寄ども五人の者は、誰であっても、御法に背いて論争をしたならば、刀を提げて駆けつけて、双方に意見をし、仲良くさせること。もしも話を聞かない者がいて、斬ったとしても、それは追い腹だと思うこと。または、上様に斬られたのだと思うこと。そこまでいかずとも、顔をたたかれて這いつくばろうと、上様にされたと思い、秀頼様を大切に思って差配しなければならないと、御決めになった」「どんなことでも、内府と大納言殿の理解を得て、それによって決めるようにと御決めになった」「伏見には内府があって、諸事職務を司るようにと御決めになった。城の留守は徳善院と長束大蔵が務め、いつでも内府が、天守に上りたいと仰せられたとき、気遣いなく上ってよいと御決めになった」「大坂は秀頼様がおられるので、大納言殿があって、すべてを司るようにと御決めになった。御城の御番は皆で務めよと仰せられた。大納言殿が天守に上りたいと仰せられたら、気遣いなく上ってよいと御決めになった」「以上この書面のとおりに、年寄衆、そのほかの者、御そばにある女房衆までもが御聞きになった」

○内府家康、大納言利家。その息子たちの江戸中納言秀忠、羽柴肥前守利長。それから備前中納言宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元。そして「年寄ども五人」は長束正家、増田長盛、前田徳善院玄以の三人のほか、石田三成と浅野長政だとされています。通常は五大老、五奉行という言い方をしますが、史料の中では、五大老を「おとな」と書き、五奉行は「年寄」または「奉行」です。この遺言状は本物だろうと思います。その理由は「内府は律儀」「大納言殿は律儀」「景勝と輝元は律儀」と、「おとな衆」を名指しして「律儀であること」を強調しているからです。黒田如水が、吉川広家に返事を書いた手紙「一二九号」でも、「輝元は元就以来の御律儀を失われた」「あなたは御律儀なので」と、律儀であることを重視する記述。黒田長政が吉川に宛てた手紙「一二七号」でも、「あなたが律儀であることは、井伊が家康公へ取り成した際にも問題視されていませんので、中国地方で一二国、あなたに下されるでしょう」と書いてあったわけです。実のところ、織田信長や細川忠興の手紙など、確実な原本史料では共通して「律儀さ」が重視されています。「神に誓って書く起請文」が厳格な約束事となるのは、誓いを破ったときの神罰が怖いからではなく、「公式の約束を守る律儀さ」が重視されるからなのです。ところが「関ヶ原」解釈の定説では、家康が「気前のいい口約束で領地加増を言っただけ」とか、「誓詞を平気で無効にした」とかの解釈がなされているため、史料文中に「あなたは律儀だ」と書いてあっても「お世辞を言った」ぐらいの認識なんです。だから「この口述遺言状は本物である」としていながらも、書いてあることの内容が重視されていないのでしょう。

○ひと口に「五大老」と言われますが、家康と利家が別格に扱われています。太政大臣秀吉に次ぐ官位の内大臣家康、それに次ぐ大納言利家。遺言状の「どんなことでも内府と大納言殿の理解を得て決めろ」の文章は、「内府と大納言で話し合って決めろ」とは言っていませんし、無論「五大老の合議で決めろ」とも言っていません。次に「伏見には内府があって」と書き、原文では「諸職御肝煎」と続きます。それから「大坂は秀頼様がおられるので、大納言殿があって」と書いて、原文では「惣廻御肝煎」と続きます。「伏見城は太閤秀吉の政庁で、大坂城は豊臣家の本拠地としての居城」と言われますが、家康と利家で司る内容が違うのは、確かにその意味を示すものと思われます。すなわち秀頼が継承する「二つの権利」があって、国家の執行権は「伏見の家康が代行」して、豊臣家の君主権は「大坂の利家が代行」すると見られるのです。そして五奉行に向けて「天守閣を見たいと仰せなら、構うことなく見せなさい」と言って、家康と利家それぞれに「全権代行を委ねる」ことを宣言しているわけです。言い換えれば、国家権に関しては家康に、豊臣家の君主権に関しては利家に対して、「誰も指図をしてはならない。全権を委任し、従え」と言っていることになるでしょう。そこまで言い切るのも「内府は長年の律儀を見ているし、大納言殿の律儀は若いころより知っている」からです。もし「そこまで信じられるもんじゃない」と言う人がいれば、この時代の「律儀であることの重さ」を見誤っているからですね。合戦の戦術展開を組み立てる際、相手の「律儀さ」が、どれほど重要な判断データになるものか、一度も「考えたことがない」のだろうと思います。そもそも「合戦は攻めればいい」の考え方でしょうしね。
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