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2016年05月24日12:14

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関ヶ原史料「家康大坂入城」毛利処分一二二号

○島田重次、加藤正次、阿部正広、大久保長安。徳川家の旗本衆である彼らが、連名で清水寺に宛てた手紙です。九月二十七日付。

●手紙一二二号「このたび内府様に対して御無沙汰を致した者たちの金銀、同租税など諸産物、御預かりでしたら早々にお出しになりますように。当然ですが、ほかから訴える者が出てきた場合、御法に照らして処分しますので、寺の内も、門前も、そちらでよくよくお調べになって、ご命じくださいますように。もしくは町人などの荷物であるとか名義を付けて、預けていることもあると思われますので、とにかく預かり物については、なんであっても御報告になりますように。調べたうえで伝えるでしょう」

○戦後処理の一端、敵対者の財産没収が始まったようです。ゆえに、少なくとも京阪神地域では、すでに戦闘が終了していることになるでしょう。この手紙は京都の清水寺に送られたものですが、ほかの有名寺院にも送ったでしょうし、それらが二十七日以降の日付だと限ったものでもありません。たまたま『日本戦史関原役』に、清水寺に宛てた二十七日の手紙が収録されているだけのこと。よって戦闘終結の下限が二十七日だと言えるのみです。

○問題なのは、家康が大坂城へ入ったのが九月二十七日だとされていること。もしも一二二号が大坂周辺の寺院に送られたものであれば、徳川軍が大坂まで来ている証拠になります。しかし残念、宛先は京都の清水寺なんですよね。よって二十七日に「徳川軍が京都にいる」ことを証明するのみですが、「まだ大坂まで行っていない」ことを証明するものでもないのです。ほかに何か、確実な史料記述はないものかと探してみましたところ、『徳川家康文書の研究』の解説文の中に一つだけありました。公家の山科言経が大坂城へ行き、十月二日に家康と会見していることを、日記史料「言経卿記」に記しているそうです。ならば九月中に大坂城へ入っていると見ていいでしょうね。これで下限は決まりました。

○定説では、輝元が大坂城の西ノ丸から退去したのは二十五日。豊臣軍団の「一二〇号」起請文と、そしておそらく、井伊と本多の「毛利家の無処分を確約する誓詞」が書かれた日です。これを受け取ったから、輝元は西ノ丸を出たのであれば、実際には二十六日だった可能性さえあります。二十二日付「一一四号」「一一五号」で輝元は「こうなったからには西ノ丸のこと、お渡し申しあげます」と書いていましたので、その直後に退去している可能性もないとは言えません。ここを考えるために、小早川のケースと比較しながら整理します。

○まずは定説のチェックです。決戦前の十四日、井伊と本多が「御忠節なら上方で二ヵ国を約束」と起請文を書き、十五日に小早川は「東軍側での戦闘行動」をしました。その後は佐和山城の攻撃に参加して、二十四日に家康が「まことに感悦。先日の話に嘘はなかったし、今後は息子と同じ扱い」と書いたわけです。毛利の場合は、十四日に井伊と本多が「御忠節なら内府の証書を約束」と起請文を書いたのは同じでも、十五日は吉川たちが「南宮山で動かなかった」だけのことです。南宮山には長宗我部軍と長束軍がいたことになっています。そして長束は居城へ撤収しました。長宗我部も領国の土佐まで逃げ帰っているわけです。しかし吉川たちは、西軍を裏切って「彼らを追撃する」ことさえしていないのです。その後、十七日に福島と黒田が「吉川と話した。内府公も了承」と書き、十九日に輝元が「内府公の御懇意を得られて、領国支配の御誓詞もいただき、安心」と返事。二十二日付の起請文で輝元は「西ノ丸を渡す」と書くわけですが、この間に毛利軍は、これっぽっちも「東軍のために働いていない」のです。これでどうして「毛利は東軍の味方だ」と言って、信じてもらえるのでしょうかね。定説では、「家康の裏切り工作に乗っかって、結果的に騙されて、領国を失ってしまった、お人よしの輝元」と解釈していますが、これでは「輝元の講和工作を、お人よしに信じているだけの家康」になっちゃいませんかね。もしも「毛利軍だけの兵力では勝てないから、戦闘の心配はない」と言う人がいれば、「のこのこ敵地に行って、暗殺されない保証がどこにあるのか?」と反論しましょう。少なくとも「定説の中にある家康暗殺計画」は、すべて否定してからにしてほしいですね。

○毛利の場合、十四日の起請文「一〇七号」も、十九日の返事「一一三号」も偽書の疑いが濃厚で、十七日の「一一二号」さえも偽書の疑念があるわけです。この点も小早川のケースとは違うところです。本物と見られるのは輝元の二十二日付「一一五号」ぐらいでして、しかもこれは起請文です。神に誓って「西ノ丸を渡す」と書いた以上は、それを態度で示すべく、直後に大坂城から退去。この情報を確認した徳川が、「毛利に戦闘の意思はない」と判断したのが二十四日で、だから小早川に感状を書き、翌二十五日には「無処分の誓詞」が書かれた、と考えるべきかもしれません。よって家康の大坂入城は、早くても二十七日、遅くとも三十日、このあたりではあるのでしょう。もっと絞れるといいのですが…。
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