mixiユーザー(id:63255256)

2019年03月20日00:25

146 view

合戦考証33「忠利の帰国」島原の乱

○忠利たち細川軍は、三月二日に有馬を離れて、熊本へ帰国しました。

●忠利九二四「3月5日」
「一つ、御無事に江戸へ御到着なさいましたでしょうか、教えていただきたく思います。長々の道に御苦労のほど、お察し致します」
「一つ、有馬に上使衆は、いまだに逗留しておられます。一揆衆が残っているかもしれないので、温泉山を各軍に命じられまして、お狩らせになりました。今月四日に山狩りをしたそうです。有馬の落城以後、落ち逃げた者が三人おりましたのを、鍋島の家来が隠して、舟で逃がそうとしたのを(当家が)見つけ、上使へ報告したことで、鍋島も非常に困っているとのことだそうです。早船も二〜三艘が関所の許可なく参りました。上使が(それを)聞きつけられて、追いかけさせました。きっと鍋島の者でしょう。またも鍋島は、困ったことになるだろうと思います」
「一つ、私も肥後守も、今月二日に帰国致し、ゆるゆると休息致しております」
追伸「なおなお、肥後守が江戸へ戻る件は、伊豆殿の御指図があるだろうとのことで、いまだにいつとも知れません。きっと、ちかぢか戻るものと思います」
「追って申しあげます。こちらからお届けしました手紙、届いたとのことで、二月二十三日の二通の御手紙、頂戴致しました。もはや一揆の城は片づきましたので、お答えすることもありません」

○第二文の「温泉山」とは雲仙のこと。有馬からだいぶ北で、島原に近いあたりです。落城の詳細報告「九二二番」一日付でも、落城後に周辺の山狩りをしたことが書いてありましたが、さらに雲仙のほうまで各軍は山狩りだそうです。それでいて細川軍は「先に帰国している」んです。ここ、不思議だと思いませんか?

○なお、追伸の追って書きに「二月二十三日の二通の御手紙頂戴」とあります。その内の一通は、忠興の「一五一三番」です。手紙の表記から「同じ日にもう一通あったはずだ」と指摘しましたが、やっぱり「二通」でしたね。そして「一五一三番」とは、忠利の手紙「九一六番」で「築山を造るのに帆を張った」とあったので、その返事に「危ないことをするな」と書いていた手紙です。案の定「手紙が届いたのは落城後」でしたね。よって忠利は「はや一揆之城相済上は、申上儀も無御座候」と答えています。だからと言って「もう意味がないから、どうでもいい」ということではないんですよ。だって、同日付の「もう一通」は保存されていないのに、こっちの「一五一三番」は保存されていたじゃないですか。忠興が「手紙ではタイムラグが生じるので何を書いてもムダだ」とわかっていながらも「書かずにいられなかった」忠告文を、忠利は大事に保存していたんですよ。

●忠利九二五「3月12日」
「お見舞いのため、使者を送って申しあげます。二十八日に吉田をお発ちになったそうで、道中はいかがでしたでしょうか。そのことは、江戸におります者が、ごようすを伺って(こちらへ)戻るように命じておきました。肥後のことも、伊豆殿からの御指示(があり)次第に(江戸へ)行かせるが、少しは休ませても構わないという御話があったので、都合十三日も休ませましたから、御指示は来ないのですが、来たる十五日に、天気次第で熊本を出すつもりですので、そのときにお伝えするでしょう。それまでに、伊豆殿から御指示があるかどうかも存じません。また、道(の途中)で伊豆殿へ御手紙を送られました(のを)ただちに手紙(に書いてあった)通りに、当家の者に持たせて送りましたこと、伊豆殿へ申しましたなら、このような御返事だったのです。もう伊豆殿も今日は、大矢野を御覧になって、中天草へおいでになっただろうと思います。島原の城は、本丸と二ノ丸を小笠原壱岐、久留島丹波が固く御番を致されております。三ノ丸に松倉はおります。天草の城には松平主税、伊東修理が御番を致されております。寺兵庫は、きっと唐津へ戻られるだろうと思います。両島の荒れ地は、今年は作り取りと命じられました。また、私が送りました手紙に、夜討ちのときに井楼を焼かれたこと、誰のとも書きませんでしたそうで、御推察のとおり鍋島です」
追伸「なおなお、鶴を二つと、羽二重を三色で三十疋(六十反)とを贈ります」

○嫡男の光尚は江戸暮らしが「義務付けられている」ので、江戸へ帰らねばなりませんが、松平伊豆守信綱からの「帰府指示」が、まだ来ないようです。そういった十二日現在の「現況報告」ですが、それより、もっと興味深い記述がありますね。文末のほうに「私が送りました手紙」とありますが、これは夜襲の詳細報告「九一九番」二月二十三日付のことです。その第五文に「敵が夜討ちに出た経路」が記されていました。原文は「鍋島本陣之わきを家百計やき、それよりうらの方のさく二所やぶり、又仕寄の内へはいり、勢楼をやき落し、出丸の内へ取込申候」です。忠興が指摘するように「誰の仕寄の内へ入って、誰の井楼(せいろう)を焼いたのか」は、確かに書いてないんです。私は「鍋島の仕寄の内」と判断して解説文に書きましたし、忠興も同じく「鍋島の仕寄の内だな?」と「推量してきた」のでしょうし、忠利も「御推察のとおり、鍋島のです」と答えているという次第。もっとも、この場合なら「鍋島の仕寄の内で井楼を焼いた」と理解するのも、敵の経路を推測する限りにおいて、特に難しくないでしょう。だとしても、忠利の「書き方」によっては、忠興でさえ「推量しなければ理解できないこと」があるってことなんです。では、城乗り報告「九二一番」二十七日付の二伸「このように書いているうちに、二ノ丸まで乗っ取りました」は、どうでしょうか?「か様に申候内に、二ノ丸迄乗取申候」が原文ですが、この文章で「細川軍が二ノ丸を乗っ取った」と読めますかね?「細川軍が二ノ丸どころか、本丸に一番乗り」と「結果を知っている」なら読めるでしょうけど、知らなかったら?
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する