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2019年03月28日01:02

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合戦考証35「黒田家批判」島原の乱

○二月二十七日に忠利が送った「九二一番」城乗り報告。それに対して、江戸へ行く途中の三月六日に忠興が返した「一五一五番」を、忠利は十七日に熊本で受け取って、返書の「九二六番」を書いていました。そして忠利は、同じ十七日にもう一通の手紙を書いているんです。

●忠利九二七「3月17日」
「城攻めの以前に、黒田と鍋島で、家来どうしのケンカがありました。とりあえず奉行衆が無理に押さえました。そのことで、鍋島の者たちが腹を立てておりましたときに、城攻めがありまして、黒田軍から撃ちました鉄砲が、鍋島軍のほうへ非常に飛びまして、負傷がありましたゆえ、三度も人を送って(こちら方向への射撃を)断ったのですが、撃ちやまなかったので、これでは同士討ちとなり、備えが持たなくなる、城はもう済んでいるのだから、黒田の者を撃ってやれ、と下々が申合せ、かなり鉄砲で撃ちましたがために、三百ばかりも死傷者が出てしまって、そのときに(黒田の)兵が崩れたとの話です。必ずしも鍋島の者が、そのように撃ったかどうかは、煙の下で見えないことでもあって、表沙汰で言うべきことは何もないと伺っております。それから、二十八日の晩に伊豆殿と左門殿を訪れて、本丸一番乗り、そのうえ四郎の首も取ったのだと、黒田が言いましたのです。(上使)御両人がおっしゃって(それは)何日の何時のことかと問われましたら、二十八日の四つ時のことだとの御返事。伊豆殿がおっしゃって、そういうことでしたらこちらでは、二十七日に乗り込み、ただちに本丸へ陣取って、四郎の家を焼いて、すぐさま四郎の首も(細川)越中の手に落ちていますので、本丸の煙の下で見えなかったのでしょうが、そういうことだと御理解ください、と申されたのだという話。戸左門殿が私に話してくださいました。そして二十九日に、前の言い分は間違ったことで、仰せられたとおりに理解致しました、という黒田の申し出があったことを、また伺いました。このたびは思いのほかに(黒田の)手が遅かったのです。林丹波が黒田担当場所の横目でした。三ノ丸、二ノ丸はもう乗り込みました、いかがしますか、と申されたら、なんとなんと返事がなかったもので、丹波は黒田の担当する大江口へ一番に乗り込み、するとようやく黒田の先手がそちらへ来たとのことで、丹波殿が肥後(のところ)へ来られて、話をされました。この件は肥後に御尋ねになってください。以上」

○宛名は「一楽」なので、披露状であることは間違いないはずなのですが、披露状につきものの「末文の定型句」がありません。この手紙はもしかすると「自筆書状で送った」のかもしれません。なにせ「黒田家への批判」が書かれていますのでね。だから同日の返信「九二六番」とは、わざわざ別の手紙にしたのかも。

○こういう内容は「歴史エピソード」としては面白いものでしょうけども、安易に鵜呑みにしないことですね。順番に確認していきましょう。まず最初の「黒田家と鍋島家のケンカ」ですが、これは「上使あずかり」で仲裁されているという話ですから「実際にあった」と仮定します。次に「黒田の鉄砲が飛んできて鍋島に怪我人が出た」ですが、この内で「鍋島に怪我人が出た」を事実であると仮定すれば、出丸に取り付いた鍋島軍に「後ろから鉄砲が飛んできた」ことになります。前から撃ってきた鉄砲と、後ろから撃ってきた鉄砲を、間違うことはないはずだからです。だとしても「後ろから」というのが「黒田軍の撃った鉄砲」だと断定しうる根拠はないんです。だって鍋島軍も「援護射撃で、出丸に鉄砲を撃ち込んでいる」はずですからね。出丸に取り付いた者の背後から、味方の弾丸が飛んでくることも普通にありうる話です。わざと黒田軍が「撃つ方角」を変えて鍋島を狙った、と考えるより、味方のタマに当たった可能性のほうが高いのでは?

○次は「腹を立てた鍋島軍が、出丸を取ったあと、黒田軍へ鉄砲を撃ち込んだので、黒田軍の一部が崩れた」という話。今度は逆で「黒田軍は前方から鉄砲射撃を受けた」わけです。それが「敵の応戦射撃ではなかった」と言える根拠があるのでしょうか?「三百も死傷者が出た」のは事実だと仮定しても、黒田家の前方には「二ノ丸から続く細丸」があったわけですし、仕寄の遅れていた黒田軍は、結局「仕寄なしに突っ込んだ」ことになるはずです。三百ぐらいは死ぬでしょ?

○さらに黒田家は「本丸一番乗りです。四郎の首も取りました」と「戦果報告」をしてきたという話。これは当然「事実」でしょうね。忠利の手紙には書かれていませんけど、上使のもとには「これぞ四郎の首です」と、いくつもの「若武者首」が届けられていたんです。四郎の母と姉が捕縛されていたので、首実検をしたところ、細川家の取った首が「四郎本人」と確認されました。つまり、黒田家以外にも「四郎の首を取った」報告は、いくつもあったわけなんです。忠利の手紙だけを読みますと「黒田家のみが変なことを言っている」ように思えてしまうでしょうが、黒田家は「当然に報告してきただけ」の話です。しかも「上使の最終的な認定」に対して、素直に「了解しました」と答えているじゃないですか。

○実を言いますと、黒田家と細川家は仲が悪いんです。関ヶ原合戦の後遺症みたいなもんですね。だから忠利は、この文章を「偏見」で書いているんです。「本丸一番乗りは細川の手柄なのに、黒田が横取りしようとした」と思い込んでのことでしょうし、だからこそ「なぜか黒田は手が遅くて、今回はダメでしたね」と批判も書いているわけです。名将とされる黒田如水、豊臣家の重鎮でもあったし徳川家にも認められていた長政、しかし三代目の忠之ときたら「使いものになりませんねえ」と言いたいのでしょうね。現地では「細川の手柄」を称賛してくれる人たちも多くいて、忠利は「結果に満足している」ような感じです。ゆえにこそ「黒田の言動」が気に障るのだし、批判をしたくもなるのでしょう。とは言っても、この手紙の理解を間違うと、城攻めの理解を間違えますよ?「本丸担当」は黒田家です。将軍の命令は「その丸きり」です。黒田家では「当然の任務」のつもりで乗り込み、そして「当然の報告」をしたつもりのはずだと思いますけどね。
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