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2019年03月16日00:47

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合戦考証32「城乗り結果」島原の乱

○前回に「忠利の詳細報告」を第五文まで読みました。これによって、城乗りの状況が、いくつか判明しました。残りの文章は「結果の報告」です。

●忠利九二二「3月1日」第六文〜第十一文
「一つ、本丸で、大将四郎の首を、当家の陣佐左衛門が取りました。上様へも、この首のことは御報告が送られまして、かたじけなく思っています」
「一つ、前記のとおり、各軍の申合せで切捨てとしておりましたので、城乗りをした日は撫で切りに致しましたが、報告のため、どの首も集めよと上使がおっしゃいましたので、当家の兵が通過したあたりの男女首を集めさせました。翌日に集めましたので、その前にさっさと盗まれた首も、または焼けてしまった首も多くございます。それでも拾い集めて、現在までの数は三千六百余があります。本丸の中で、鉄砲で撃ち殺した者は、いまだに火がありまして拾えません。はしばしで焼けている首も、いまに集めますので、総計はまだわかりません」
「一つ、城の中の者で、生け捕りも多くございまして、城内にいた頭の者、および総人数も判明しましたので、写しを差し上げます。それと、黒田へ向けて夜討ちに出た人数の目録、これも判明しましたので差し上げます。夜討ちに出た者のうち、半数は、竹束の外れから城中へ帰ったそうで、本当に出た人数は、城の中の者も知らなかったのです」
「一つ、本丸でキリシタンの自害のようすを、こちらの者たち大勢が見ました。小袖を手にかけて、焼けている材木を上へ押し上げて、その中へ入った者が多くおりました。また、子供などを中へ押し込んで(自分は)上にあがって(焼け)死んだ者も多くいました。なかなか殊勝な下々の死、言語に絶します」
「一つ、本丸の下に小丸がありました。ここに集まったキリシタンは、二十八日の夜明けになってから、各軍の合同で攻めました。これには当家の兵は行きませんでした。端にいて見物致しました。昼日中に見苦しいことも、または手柄になりそうなことも、よくよく見物致しました。京都の者たちも見物致しておりました。お歴々の衆の旗、馬印、番差物もいろいろとございますが、手紙に今(それを)書くのは難しいです」
「一つ、黒田殿のこと、このように、一度で本丸まで取るべきとは思われなかったのでしょうか。主に担当する出丸を二十七日の日暮れにようやくお取りになって、各軍の状況を見ているうちに、後備えの水野日向殿、小笠原右近殿が、右衛門佐の前と、本丸とのあいだへ乗り込んできて、焼き回ったので、もはや表側から中へ入ることもできず、焼け鎮まって(から)本丸の際へお寄せになったとのことを、小遠殿がただいま語ってくれました」

○まず第六文。敵の大将「天草四郎」の首を取ったのは、細川家の「陣」という家来。このときの状況は、手紙に書かれていませんので、保留にしておきます。

○注目すべきは第七文の「本丸の中で、鉄砲で撃ち殺した者は、いまだに火がありまして拾えません」ですね。「本丸の内にて鉄砲にて打ころし候ものは、いまだ火御座候而成不申」が原文です。二十七日の何時ごろに、本丸に火が入ったのかは、記述がないのですが、三月一日になっても「まだ火が鎮まらない」ために首を拾いに行けないという状況。あちこちで火が燃え続けている状態だってわけ。

○城攻めの方法には「火攻め」というのもありますが、こういう「現実的な状況記述」を見れば、「城乗り」と「火攻め」は両立しないことになるじゃないですか。これは第十一文にも書いてあります。本丸下の黒田家では「水野と小笠原が前に割り込んできて、焼き回ったので、表側から入ることができなくなって、火が鎮まるのを待った」の話。原文は「跡備の水野日向殿、小笠原右近殿、右衛門佐前と本丸の間へのりこみ、やき立られ候故、最前主手前より内へはいられ候事不成、やけしづまり、本丸きわへよられ申候由」です。この話を忠利は「小堀遠江守政一」から聞いたそうです。しかも前回の第五文でも「鍋島は塀際から焼いていったために奥へ入れなくなった」と書いていたわけです。だとすれば、西の本丸側でも、中央の出丸側でも「火攻め」をやっていたところ、東の三ノ丸側では「仕寄で城乗りした細川が、火の回っていない南方から二ノ丸へ乗り込んだ」ことになるわけです。忠利の文章では「火攻めをやって、城乗りできなくなったのは失策」であるかのような書き方で、第十一文では「黒田殿のこと、このように、一度で本丸まで取るべきとは思われなかったのでしょうか」とも書いています。原文は「黒田殿之儀、か様に一度本丸まで可取とは不被存候哉」です。けれど「城乗りの予定は二十八日」で、「今は出丸に仕寄を寄せる」のが「上使の御命令」だと第三文には書いてあったわけですよ。ちょっと話が違いませんか?

●忠利九二三「3月2日」
「有馬方面は手もあきましたので、帰国致すようにと、上使から言い渡されましたので、私も肥後も帰陣することになりました。(忠興様は)もう江戸へ向かっておられるのでしょうか。御健康状態のこと、教えていただきたく思います」
「追って申しあげます。前の負傷と死者の目録は、急いで、書き落としがありました。少しぐらいの手傷は(家中の)組々が申告しなかったのです。それを加えましたなら、二千九十九人でございます」

○翌日の手紙です。二月八日付「九一四番」で忠利は「ずっと手負いは少なくなるようにとの御命令」と書いていたし、「今回は城乗りだとは思わないようにして、安全に乗り込む」とも書いたうえ、「今度は手負いも死人も大して出ないだろうと思う」とまで書いていたのに、結果は重軽傷者が二千人余です。このほかに戦死者が数百人はいるみたいなんです。これほどにも「事前の言葉」と「事後の結果」が大きく食い違ったことについて、実戦経験の豊富な「戦国大名」の忠興が、どんな反応を示すのか、ここがポイントなんですよ。とはいえ、今の忠興は江戸にいるため、返信を書くのは先の話。しばらく忠利の報告が続きます。
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